安心問答(浄土真宗の信心について)

浄土真宗の信心についての問答

信心決定したら、何か分かったというようなハッキリしたものがあるのでしょうか。(頂いた質問)

信心決定したら、何か分かったというようなハッキリしたものがあるのでしょうか。(頂いた質問)

信心決定したとは、阿弥陀仏の第十八の願をこころうることですから、阿弥陀仏の本願がまことであるとハッキリします。ただ、こう聞くと自分の中に「阿弥陀仏の本願がまことであると分かる基準が出来上がる」と思いますが、そうではありません。

例えば、「なにかさとりを開いて南無阿弥陀仏が分かるようになる」とか、「今迄見えなかったものが見えるようになる。聞こえなかったものが聞こえるようになる」というように思う人もいます。しかし、そんなものはありません。

それでも私たちは、ハッキリしないことがハッキリするときには、何か証拠がなければなりません。例えば、企業の不正疑惑などがあったときは、疑惑の段階では本当に不正があるかどうかはハッキリしません。その不正がハッキリするときは、不正の証拠がどこからか出てきたときです。

それを阿弥陀仏の本願にあてはめて、「阿弥陀仏の本願がまことである」という証拠をどこかに探してしまいます。その証拠をみつけたのが信心のように思ってしまう人もいます。


しかし、証拠は南無阿弥陀仏の外にはありません。南無阿弥陀仏を聞いて称えているままが、それ疑い無く聞き入れているのが、ハッキリしたということです。○○だから、ハッキリしたのではなく、南無阿弥陀仏が証拠です。外にはなにもありません。

かるがゆゑに、阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり(御文章4帖目7通 六か条)

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