安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

難しいのではなく、必ず助かるということです(頂いた質問)

ただ今救われる本願だと聞きますが、以前聞いてきた話の影響なのか、どうしても阿弥陀仏に救われると言うことは大変難しいことのように思います。オリンピックで金メダルを取るよりも難しいと聞いたこともありますが、本当に助かることがあるのでしょうか。(頂いた質問)

阿弥陀仏の救いは、阿弥陀仏がされることでありますので、オリンピックと比較することはあまり意味のないことです。
ただ今阿弥陀仏に救われて、死ねば浄土に生まれて仏のさとりを開くと言うことは、聖道仏教の修行によって同じ結果を得ようと思えば、凡夫には全く不可能な話です。オリンピックどころの話では無くなってしまいます。

自ら何かの行によって救われようということは、行そのものが難行である上に、凡夫にはできないことです。

しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」(定善義)といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。(教行信証化土巻(本)・註釈版聖典P393

これは、観無量寿経に説かれている善(定善、散善)を実行することがとてもとても難しいと言うことを書かれているところです。
常に苦しみに沈んでいる凡夫には、息慮凝心といわれるような、定心にはとてもなれないのです。心を一点に集中して動かさず、阿弥陀如来や浄土を心に映し出すということはとてもできないということです。
散善についても、煩悩をかかえているものには廃悪修善がとてもできないということです。
そのため立相住心(相を立て、心を住する)は、なおさらできない。
立相住心は、観無量寿経で言われる定善のように、阿弥陀如来や浄土を心に思い浮かべるときに、形(相)があるものとして思い浮かべることをいいます。
立相住心ができないのですから、聖道仏教でいう「無相無念」などとてもできないといわれたものです。

観経で言われる定善を実行し、昼となく夜となくひたすら阿弥陀如来のお姿を念じつつづける修行ができなれけば「千年の寿を尽くすとも、法眼は開けない」と言われているのです。

これが、観経で言われるところの善です。やってみなければできる自分かできない自分かわからないという程度のものではないというのは、この一文だけでもわかるものです。

その凡夫のためにたてて下さったのが阿弥陀仏の本願です。聖道仏教の修行にも、定善、散善によってもさとりを開く事ができないものの為に、本願を建てて下さったのです。

本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき
 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし(高僧和讃13・註釈版聖典P580)

その本願力にあわせていただいて、空しくこの世を過ぎていく人はないのです。
南無阿弥陀仏のお働きは、煩悩を障りともせず平等に救って下さいます。

難しいというのは、確率でいえば、確率が低いと言うことになるかと思います。しかし、本願力にあいぬれば、むなしくすぐる人ぞなきと言われるように、必ず助けるお働きが阿弥陀仏の本願力です。確率が低いどころではありません。必ずただ今救われます。