ミムラねえさんと、shinji三からコメントを頂きました。有り難うございました。
「疑いなく聞く」ようになった人が、「自分一人に語りかけられてきたような気がした・・・。」と言うのを聞いたことがあります。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100520/1274311890#c1274345065
やはり、「疑いなく聞く」ようになった人(信後の人)は、そう感じるようになるのでしょうか?(ミムラねえさんのコメント)
表現は人によって違うので「自分一人に語りかけられてきたような気がした」と、全員感じるものではありません。
同じ所は、本願がまことであり、疑いなく聞いているというところです。
阿弥陀仏の本願は、私を助けようと、常に呼びかけ働いて下されるものです。それを「自分一人に語りかけられてきたよう」と表現する人もあるでしょうし、別の言い方をされる方もあります。
大事なところは、どう感じるかより、本願がまことであるということです。
阿弥陀仏をすっと受け入れようとするのも計らいなら、反対に何にも考えないのも計らいであり、阿弥陀仏を慕う気持ちは強くなりますがもやもやした状態です。
また、この状態であれば無常は迫っているという焦る気持ちもあります。
「ただ今救われた」というところまで聞かせていただくということなのでしょうか?(shinjiさんのコメント)
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100520/1274311890#c1274436253
聞こうとするのも自力なら、考えないのも自力です。
また、そのまま無常が迫ってくれば、どうなってしまうのかと焦る気持ちもよくわかります。
しかし「救われたと言うところ」があるのではありません。現在ではない、少しでも自分が変化したところに救いがあるというのは間違いです。救われたというところがあるのではなく、ただ今であり、今いる場所が救われるところです。
ところという言葉を使うとどうしても、今ではないというように思ってしまいますが、ただ今阿弥陀仏の本願を疑いなく聞くのが信心です。
阿弥陀仏に向かって、阿弥陀仏の本願を聞いて下さい。必ずただ今救われます。