安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

どちらが悪いかではなく、順番の問題です(shinjiさんのコメント)

shinjiさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

今の自分の心は、

・阿弥陀仏を慕う気持ちで聞かせていただいていますが、目に見えないし耳に聞こえないから救われるまでわからないな・・・という気持ち

・今日とも知れない命なので急がなければならない、早く救われたいという気持ち

・何年も某会で聞いていましたが、周りの人に褒められたいという気持ちしかなく、今まで阿弥陀仏のことをおろそかしてきて申し訳ない気持ち
(shinjiさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100529/1275094944#c1275887139

ご自分の心を打ち出して頂き有り難うございました。
阿弥陀仏は、確かに目には見えません。しかし、耳で今まで本願の心については聞いて来られたと思います。また、文字で書かれたものを目にしてこられたと思います。
文字にすれば、「必ずただ今救うぞ」というものです。
それ以外の何か、人間の声ではない不思議な声がこの耳に聞こえてくるのではありません。

きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。(一念多念証文

本願をききて疑う心がないことを「聞」といわれますが、最初の「本願をききて」という部分について、ここで何か不思議な音が聞こえるということではありません。
そういうものを聞いたことがないので「聞いていない」と言われるのでしたら違います。
お釈迦様が説かれ、また歴代の善知識方が伝えてゆかれた本願は、お釈迦様や善知識方の言葉であらわされています。その言葉を聞いて疑いないのが「聞」ですから、すでに耳で「きいて」おられると思います。ただ、疑う心があるということです。
疑う心があるという点で「聞」ではないといういみで「聞いて」いないのです。

今日とも知れない命と思う心や、阿弥陀仏の事をおろそかにしてきて申し訳ない気持ちはとても大事な心です。
阿弥陀仏は、おろそかにしてきたことに腹を立てておられるのではありません。それよりも、無常の身ですから、早く弥陀をたのめと願っておられるのです。
悩んでいるのは、shinjiさんだけではありません。阿弥陀仏もなんとかと願っておられます。

どっちが悪いかではなく、どっちが先かという問題です。
阿弥陀仏が願われているのが先なのです。「助かりたい」の自分の都合は後回しです。先に阿弥陀仏のただ今救うぞの願いを聞いて下さい。
必ずただ今救われます。