安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

阿弥陀仏は私を助けて下されると聞きますが、今一つ実感がわきません。別に疑っている訳ではないのですが……(頂いた質問)

阿弥陀仏は私を助けて下されると聞きますが、今一つ実感がわきません。別に疑っている訳ではないのですが……(頂いた質問)

阿弥陀仏の本願は、私が要求した結果建てられた願ではありません。阿弥陀仏から一方的に建てられた本願ですから、私に今一つ実感がわかないというのも分かります。

そうかといって、実感として本願がわかるには、阿弥陀仏が本願を建てられた所以である、私が自らの力で生死を離れることができないことが分からねばなりません。それが自分の力で分からないから、阿弥陀仏が本願を建てられたのですから、結果的に私たちが日常使う「実感」という言葉から想像されるようなことはありません。

しかし、そんな私ならやっぱり阿弥陀仏とは遠い存在なのだなとか、私が阿弥陀仏に救われるなんてことは、少し考えにくいことだと思うのは間違えです。それでも、いろいろと理由をもってきては、私たちは阿弥陀仏の救いをあきらめてしまいます。能力や体力などなどを理由に持ってきますは、それはつまるところ自分で自分を見限っているにすぎません。
別に疑っている訳ではないという方でも、「ただ今救う」という点は「そのうちに救う」と勝手に頭の中で書き換えていることもあります。

阿弥陀仏の救いに対して、自分でブレーキをかけたり、あるいは自分で自分を見捨ててしまいます。しかし、阿弥陀仏は、決して私を救うことをあきらめたりはしません。あきらめないというより、全く私を救うことに疑いがないのです。

なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。これを利他真実の信心と名づく。(教行信証信巻)

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法蔵菩薩が、私を救うための行をされているときに「一念一刹那も疑蓋雑はることなき」と書かれています。疑いが混じっていないといっても、これは私を救うための本願を建てられているときの行ですから、「私を救うのに全く疑いを交えておられなかった」ということです。
その心は阿弥陀如来の大慈悲心でありますから、それが報土往生の因となるのだといわれています。

私が自分を見捨てても、阿弥陀仏は私を見捨てられません。ただ今救うことに全く疑いをもっておられませんので、その仰せをそのまま聞くと報土往生させていただけるのです。