安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

南無阿弥陀仏に疑いないことと実感について(おしゃまさんのコメント)

「信心決定=成仏」ではないので、私も“平生に仏と同じ智慧を身に付けれる”とは思っていません。
でも獲信した人は皆、口をそろえて「南無阿弥陀仏」を褒めておられますよね。

親鸞聖人は「ただ念仏のみぞまことにておわします。」と仰っておられますし、
蓮如上人も「無上甚深の功徳利益の広大なること更にその極まりなきものなり。」と書いておられます。
他にも「南無阿弥陀仏は宝です。」と言っている人や、
「南無阿弥陀仏の力はすごい!」と言っている人もいます。

信心決定した人は「南無阿弥陀仏の仕組み」までは理解できなくても、
「南無阿弥陀仏のお力のすごさ」は、実感としてわかるようになるとしか思えません。(おしゃまさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100418/1271545268#c1271586233

南無阿弥陀仏のお働きについて、実感としてわかるというのは、結果としてそう思わせて頂けるということです。
私が南無阿弥陀仏の功徳が分かるだけの智慧を持ち合わせていないので、なにがどう凄いかは具体的には分かりません。すごいと思わせているのは、信心そのものが基本的に阿弥陀如来の心だからです。

次に信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。(教行信証・信巻

信楽という信心は、阿弥陀如来の満足大悲といわれているので慈悲の徳の完成したものです。円融無碍とは、智慧の徳の完成をあらわします。信心海とは、智慧と慈悲を完成して私たちを疑いなく救う信心を海にたとえておられます。この私を助けるという阿弥陀仏の仏心には、疑いが全く無いので「疑蓋間雑あることなし」といわれます。
疑いないとは、私の方に疑いないという説明をすることもありますが、基本としては、阿弥陀如来が私を救うことに疑いがないということなのです。

この私を救うことに疑いないのが信楽ですから、私の心と言うよりも「信心海」といわれます。私の心に信楽があらわれるというよりも大変広い阿弥陀如来の信心の海に入るのです。
阿弥陀仏が私を救うことに疑いを差し挟む余地がないので、南無阿弥陀仏に疑いがないということです。
分かると言うことではなく、疑いがないということです。