安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

他力の信心は私のものではありません(Rudelさんのコメント)

Rudelさんからコメントを頂きました。有り難うございました。

(自分が)助かりたい」という前提で仏法聞いているので、「助かるとか、助からないとか、往生出来るとか出来ないとかは、全部南無阿弥陀仏の受け持ち」と言われると、困ってしまいます。阿弥陀様の受け持ちにできません。

聞かせていただいても、「間違いなくなりたい、ハッキリしたい」という気持ちになるばかりです。凡夫の心がハッキリするわけはないとは思いながらも、
「法に向かう」ではなく、法をつかもうつかもうと、出ない手足を伸ばすばかりです。
どうしたらいいか、何をどう聞けばいいのやら、わからなくなって来ました。(Rudelさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100305/1267787959#c1267801158

出ない手足を伸ばしても、それは自力の上塗りです。

自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず、ひとすぢに具縛の凡愚・屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり。(唯信鈔文意

みづからが身をよしと思う心をすて、身をたのまずとは、自分の身の中に信心を所有しようという心を捨てることです。また、それをすててしまったら、私には何も無くなってしまうのではないかという心も顧みないと言うことです。元々何もないのですから、捨てることや、顧みないことに躊躇はいりません。困るのは、自分の信心を自分のものにしよう、所有しようという心ですから、捨てるものです。

信心とは、阿弥陀仏の本願によって成就した南無阿弥陀仏を聞いたそのままが救われた姿です。

ハッキリしたいというのが、よいかわるいかということよりも、そう思うところから、阿弥陀仏に祈る心になるのです。祈るとは、阿弥陀仏に確信を請求する心です。

他力の信心は、私の方にものがらがありません。何をどう聞くかではなく、聞いたそのままが、他力の信心です。