安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

そのままとは、きいたそのまま。補足2

聞いたそのままの、補足エントリーその2です。

他力の信心は、本願を聞いたそのままということについて書いてきましたが、その補足です。

他力の信心は、聞いたそのままということは、別の言葉で言いますと、他力の信心は、そのものがらが私にないということです。私の方になく、南無阿弥陀仏の中にあるということです。

蓮如上人が、「聖人(親鸞)一流の御勧化のおもむきは、信心をもつて本とせられ候ふ」と、聖人一流の章に言われています。浄土真宗の教えは、信心が本です。
その信心とは、「信じております」という信心ではありません。一般で言う宗教とは、信じるものがらが私の中にあるのです。他力の信心とは区別する意味で、そういう信心を「確信」とします。自分で間違いないと確信するのは、他力の信心ではありません。
ですから、一般に言う宗教団体は、親鸞会も含めて、「あなたは間違っている」というと「私は間違っていない!」とかたくなになり、自分で確信を固めます
自分は間違いないと、確信をもつということは、第3者からの意見を聞く耳がなくなってしまいます。そうやって自分だけ「これこそ真実」と気分を高揚させていきます。マルクスが宗教はアヘンだとか、毒酒だといったのは、こういったところからきます。自分だけが閉じられた世界のなかで、酒に酔ったようによい気持ちになり、他のことは一切聞かなくなるからです。
しかし、他力信心は、そういう閉じられたものでは有りません。開かれたものが他力の信心です。どうしてかといえば、助かるとか、信心のものがらが私にないからです。

自分の中に閉じ込めた確信は、信心のものがらが自分で所有しているので硬くなります。例えていえば、1億円を鞄に入れて自分の手元に持って暗い夜道を歩くとなると、周りの人に取られるのではないかと疑心暗鬼になり硬くなってしまいます。
信心は、所有化している限りは、どうしても自分でつかんで硬くなります。○○だから間違いないという、○○は、全部私の中の三業であり、確信です。
他力の信心は、信じるものがらが私の中にないので、「これで間違いない!」と確信する必要がないものです。また、壊れないようにと、自分で守る必要もありません。相続も、自分の手元に無いので、自分で相続させようと頑張るものでもありません。

他力信心のものがらは何かと言えば、南無阿弥陀仏です。私の作ったものでも、私の所有できるものでもありません。
「信心獲得」ときくと、信心が所有できるものであるように思いますが、そうではありません。所有できると思うところに、信心のものがらを自分の中に探す心が出てきます。安心が出来た、確信ができた、大丈夫になったなどというのがそれにあたります。仮に見つけたとしても、信心のものがらは、南無阿弥陀仏であって私の確信では有りませんから、みつけたものがらは他力信心ではありません。

信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。(御文章5帖目5通・信心獲得

信心獲得は、阿弥陀仏の第十八願を心得ることであり、南無阿弥陀仏のすがたをこころうることだといわれています。
では、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるとはどういうことかといえば、「自力を捨てて、一心に弥陀をたのむ」ことです。聖人一流の章で言えば「もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命」です。自力を捨てるも、一心に弥陀をたのむも別のことではなく同じ事です。
弥陀をたのむとは、南無阿弥陀仏をたのむということです。南無阿弥陀仏にまかせるということです。助かるとか、助からないとか、往生出来るとか出来ないとかは、全部南無阿弥陀仏の受け持ちです。
私の仕事はそこにはないということです。信心のものがらは、私の中にはありません。南無阿弥陀仏を聞いたそのままの、南無阿弥陀仏の中にあります。どれだけ頑張っても私のものにはなりません。

私が聞いて間違いなくなったことが信心ではありません。間違いのない南無阿弥陀仏を聞かせていただくのが先です。聞いたそのままが信心です。