安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「教義」について(リフレインさんのコメント)

リフレインさんよりコメントを頂き有り難うございました。他、多数コメントを頂き有り難うございました。

適当に自分の味わいを言えばいい、というのは納得できません。言葉では上手に言えない人でも、教義の土台があるから話せるのではないのでしょうか?
上手に話すという問題でなく、「教義を重要でない」というのは、納得できません。また、何も分からないものでして、と謙遜する言い方がありますが、本当に分からないなら、いいですが、美徳のように言うのはおかしいと思いますが、間違いでしょうか?(リフレインさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091229/1262049916#c1262053289

回答します。
リフレインさんのいわれるように、適当に自分の味わいだけを言うというのが、仮に布教する立場の人であったらそれは困ると思います。
ただ、個人間での信心の沙汰で自分の体験を語る方に対して、「教学の勉強をするまで話をしないで下さい」ということも難しいと思います。
「教義を重要でない」というのは、どういう人が言われているのかは分かりませんが、「お聖教に何が書いてあるかはあまり重要ではない」という意味で言うのならば間違いです。しかし、「学問して救われるのではない」という意味で言うのならば、間違いとも言えません。
救われても何も分からないというのはその通りです。重ねて学ばなければ、救われたと言うこと以外は分からないのですが、何も学ばなくて良いということではありません。

また、教義と言ってもこれは、南無阿弥陀仏の六字のこころしかありません。

されば他力の信心をうるといふも、これしかしながら南無阿弥陀仏の六字のこころなり。このゆゑに一切の聖教といふも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなりといふこころなりとおもふべきものなり。(御文章5帖目9通

これ一つを明らかにして、聞かれる人が阿弥陀仏によって救われることが大事です。これが抜けた教義なら、それは学問ということになります。

何も分からないというのは、そんなものでも救われたという法の讃嘆の仕方の一つだとは思いますが、人に話をする場合はそれだけしかないとなると、いってる方は分かっているつもりでも、聞かれた方が誤解をされることも考えられます。

リフレインさんにとって大事のは、自らが阿弥陀仏に救われる事です。自信教人信ですから、ただ今阿弥陀仏に救われてまた人にお伝えるさいに勉強をされればよいと思います。