安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

言葉が違う人とは共通語で話すのがよいと思います(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。コメント頂いてより時間がたってしまい申し訳ございませんでした。

(専門的なことは知りませんが)
「親鸞会でいう○○」と言った場合、
(1)本来の(親鸞会で定義した)意味
(2)実質的な(親鸞会で使われている)意味
と2つの意味があって山も山さんは(2)で言われていると思うのですが、
(1)と(2)が異なる場合が多々あります。
実際に使われた状況、文脈が言葉の意味を決めていきますから言葉の意味は変わっていくのでしょう。
しかし(1)と(2)がずれてくると困ります。
(2)の意味で言っていることを、きっと親鸞会は「そんなのは出鱈目だ」と(1)の意味で反論するでしょう。そうすると話が通じず、意味のない言い争いになってしまいます。
とても残念なことです。なんとかならないものでしょうか?(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091229/1262049916#c1262084341

回答します。結果から言いますと、難しいというのが私の実感です。
以前のエントリーで、「聴聞」や「教学」という言葉について書きましたが、親鸞会は今年で51年間経ちますがが、その間、教義的な面で外部からの意見を受け入れると言うことは一切してきませんでした。かつて親鸞会の教義について意見をしてきた人をすべて、「破邪」してきたのが親鸞会です。
教義面は特に、鎖国状態です。いくつかのブログでも指摘されているように「聴聞」「宿善」「後生の一大事」「善知識」「三願転入」と言った真宗の言葉が、親鸞会の内部では方言のように独自の意味合いを持つようになっていますので、話がかみ合わなくなります。
日本の携帯電話が、世界の中で独自の発展をしたことをさして「ガラパゴスケータイ」というそうですが、「ガラパゴス真宗」というべき状態が今の親鸞会です。
加えて、真宗本来の意味と親鸞会独自の意味が混在しているので余計にわかりにくい状態となっています。

一番大事なことは、教えなのですが、問題は「その教えは、私がただ今救われる教えか」ということです。「善をしなければ信仰は進まない」について以前書きましたが、これも問題は「ただ今私が救われるかどうか」という観点でいえば「ただ今救われない教え」になるからです。

しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門(往生要集・下)のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。(教行信証化土巻

「濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよ」と親鸞聖人がいわれているように、できないことはなにか、できることはなにかを知らねばなりません。
往生の一段においては、阿弥陀仏の一人働きですから、弥陀をたのめと蓮如上人は御文章にくりかえし教えられています。

話がかみ合わないと皆友さんのコメントにもありますが、「その教えはただ今私が救われる教えですか」と問いかけることが、「ガラパゴス真宗」か「真宗」かを見分ける言葉になると思います。
言葉の定義が違った、いわゆる方言を持っている人とは、共通語で話す必要があります。共通語になるのは、「ただ今私が助かるかどうか」です。