安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「仏法を求めることは法鏡に近づくこと」ということについて、救われたいという強い気持ちを起こさねば救われないのでしょうか?について(みかみさんのコメント)

みかみさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
2つ質問を頂きましたので、順番に回答をします。

質問1

1.仏法を求めることは、法鏡に近づくことだと聞きますが、これは、本当なのでしょうか。自分の姿が知らされてくるのでしょうか。(みかみさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090821/1250861116#c1250883594

回答します。
仏法を求めることは、法鏡に近づくことだということについてですが。
仏法を、法の鏡として、そこに映る自分の姿というのは、聖道仏教と、浄土真宗では、ものがらが異なります。

聖道仏教では、煩悩を抑え、煩悩を断ちきることでさとりを開くという仏教ですから、問題になるのは煩悩です。

阿弥陀仏の本願に向かったときに知らされてくるものは、煩悩ばかりではありません。また、煩悩が知らされたといったところで、それが阿弥陀仏の救いでは無いからです。

阿弥陀仏の救い、信心決定するということは、どういうことかというと

もろもろの雑行を投げすてて、一心に弥陀に帰命すれば(御文章5帖目10通)

と蓮如上人がいわれるように、もろもろの雑行雑修自力の心を投げすてて、阿弥陀仏に帰命したことです。煩悩が見えたことではありません。

法鏡でいう「法」を「阿弥陀仏の本願」としますと、阿弥陀仏の救いに真剣に向かったときに問題になるのは、煩悩ではなく、自力の心です。
鏡に向かうという言い方をするならば、救われる前と言うことになりますから、信前に見えてくる姿であり、阿弥陀仏の救いに関係有る心は、自力の心なのです。

仏法は心を重んじられます。それは、法に向かっての心が大事なのです。

一、法にはあらめなるがわろし。世間には微細なるといへども、仏法には微細に心をもち、こまかに心をはこぶべきよし仰せられ候ふ。(御一代記聞書128)

法には大雑把であるということは悪いことである。世間には心を細かくしていても、仏法には心を極めて細かく心をもち、見つめなさいと言われています。

私たちは、とかく世の中のこと、会社で言えば上司の言動、親戚、近所同士での相手がどう考えているかということに細かく神経を使っています。それぐらいの細かく見る見方で、仏法にむかった時の心を見つめなさいといわれています。

ここで「仏法には」とは、「阿弥陀仏の救い」のことですから、ただ今救う阿弥陀仏の救いに向かったときの、自分の心を細かく見なさいといわれています。
これが、法鏡(阿弥陀仏の救い)に向かうと自分の姿が見えてくるというのです。何十年仏法を聞いていますと言っても、自分の姿が見えてきませんという人もありますが、これは、自分の姿が見えていないのではなく、ただ今の阿弥陀仏の救いに向かっていないからです。
いつか救われると弥陀の救いを見ていれば、雑行も、自力も分かりません。自力の心も分からないと言うことは振り捨てることもありません。なぜならば、阿弥陀仏の本願は「いつか救う」という本願ではありません。「いつか助かる本願」は、その人の勝手に作った本願であって、ただ今救う法ではありません。
ただ今救う本願(法)に向かうから、法に反する心も映し出されてくるのです。

質問2

2.私を救うのはあくまでも阿弥陀仏ですが、しかし、救われていない私どもが、まず阿弥陀仏に救われたいと強く思うこと、すなわち阿弥陀仏に向かう姿勢が大切なのでしょうか。そういう気持ちを起こさないと、ただ今救われないのでしょうか。
その理由を聞かせて下さい。(みかみさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090821/1250861116#c1250883594

回答します。
阿弥陀仏にただ今救われたいと思うことは大事です。
阿弥陀仏の本願とは、前述しましたように「そのうち救う」本願ではありません、「ただ今救う」本願です。

たとい大千世界に みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名をきくひとは ながく不退にかなうなり(浄土和讃)

親鸞聖人が、大宇宙に充満する火を過ぎゆきて聞きなさいといわれているのは、「仏の御名」です。
「仏の御名」とは、「聞其名号」の名号ですから、南無阿弥陀仏のことです。
南無阿弥陀仏は、「ただ今救う」という働きがあります。真剣な心も、浄土に生まれたい心もない、浄土へ往生するものが何もない私だと見抜いて阿弥陀仏が作られたものです。

ですから、「ただ今救う本願を、ただ今救う本願と聞け」ということです。

これは「真剣な気持ちを起こさないと、ただ今救われない」ということではありません。「真剣な気持ちを起こす」ということが問題ではなく、「ただ今救う本願を、ただ今救う本願と聞きなさい」ということです。

これは、「まず真剣になれ」ではなく「まず助かりなさい」ということです。阿弥陀仏の本願は、「まず真剣な心になれ」という願ではなく、「ただ今救う」という願です。

「ただ今救う本願」に「ただ今救われよう」と思う人が、結果として真剣になるのです。真剣になったから、阿弥陀仏の救いが「いつか救われる」から「ただ今救う」に変わるのではありません。

真剣にならなかったら助からないのかという疑問は、よくわかります。
しかし、この疑問は現実問題として助かっていないことを、自分で理由付けしているにすぎません。
「私が真剣になってないから」助からないのではありません、阿弥陀仏の救いが、「いつか」になって「ただ今」になっていないからです。

真剣になるかならないかを問題にするのではなく、ただ今助かるか助からないかを問題にするのです。
求めていることは「真剣になる」のではなく、「阿弥陀仏の本願に救われる」ことだからです。