安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

阿弥陀仏は石像でも木像でもありません(頂いた質問)

2009-11-12
分かるか分からないかで救いをはかるのが、仏智の不思議を疑うこと(頂いた質問)
問答

いつまでたっても助からないと,「自分だけ本願から除かれているのではないか」「私は助からないのではないか」「弥陀の本願,本当なのだろうか」という心が出てきますが,これらは疑情でしょうか。法に対する疑い,機に対する疑いでしょうか。「仏智疑う罪深し」の疑いでしょうか。(頂いた質問)

回答します。
お尋ねのように阿弥陀仏の救いに向かっていろいろとでてくる心は、ひろい意味で疑情といえます。
しかし、いろいろ出てくる心を、あれこれ詮索することは、それ自体が法に向かっていないので、「それは疑情だぞ」ということはできません。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091112/1258033900

法に向かっていないとは?
また、この文章で言えば「信心」について「どのように心をもち、阿弥陀仏を何とようにたのむのか」ということについての答えです。
「どうすれば救われるのか」ということであって、「どうすれば自力が分かりますか」ということではありません。
自力の心の概念の定義づけにとらわれると、阿弥陀仏に救われる為なのか、自力を知るためなのか、混同してしまいます。
この部分がさっぱりわかりません(頂いた質問)

回答します。
法に向かっていないというのは、何に助けて頂くかと言えば、阿弥陀仏の本願力であるのに、阿弥陀仏の本願のこころに向かわず、自分のこころにばかり目が向いていることを書きました。

お尋ねのように、「これは疑情でしょうか?」という問いに対して、答えていないのではないかと感じられたのだと思います。
いろいろと出てこられた心について、これは疑情でしょうか?という問いは、大事な事ですが、それにとらわれると、「阿弥陀仏に救われるため」から、「自力がわかるため」に変わってしまいます。お尋ねのように混同してしまいます。

「阿弥陀仏にすくわれるには、まず自力がわからねばならない」
「どうすれば自力がわかるのだろう」
「私の心にあるはずだ」
このように自分のこころの姿ばかり問題にするのは、大前提として、阿弥陀仏が動いて下されない仏だと思っているということになります。

例えていいますと、「大魔神」のような阿弥陀仏だと思われているのではないかと思います。
「大魔神」とは、1966年公開の特撮時代劇映画ですが、簡単なストーリーを紹介しますと

舞台設定を戦国時代におき、悪人が陰謀をたくらみ、民衆が虐げられると、穏やかな表情の石像だった大魔神が劇中で復活・巨大化して動き出し、クライマックスで破壊的な力を発揮(wikipedia-大魔神)

(純粋な乙女の涙で大魔神は動き出します)
というものです。

この大魔神のように、ものすごい力はあっても、なにか助けて欲しいという願いを出したり、なにかきっかけがないとその力が発揮されないように思われているのだと思います。
阿弥陀仏は、本願を建てられてより、ずっと動きずくめです。私を助けようと働いておられる大慈悲心の仏です。
その阿弥陀仏を、石像にしてしまって、
「自力がわかれば、石像から生きた阿弥陀仏に復活して助けて下される」
「罪悪観が問い詰まれば(以下略)」
「もっと真剣になれば(以下略)」
「もっと善に励んだら(以下略)」
「もっと○○したら(以下略)」
と思うのは、反対です。

阿弥陀仏がなんとかと働いていおられるのに、私が石像のように反応せず動かないのです。

自力を探すのは、それが「わかった」ということを阿弥陀仏に差し出して、勝手に動かないと思っている阿弥陀仏を動かそうという心です。
阿弥陀仏は、現在も動いて、生きて働いておられますから、その阿弥陀仏にただ今救われて下さい。

参考資料