安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

計らうも、計らわないようにも、計らいです(Rudelさんのコメント)

Rudelさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

私も、とにかく「阿弥陀仏が何が何でも助けると仰っているのだから、もう何が何でも助からずにすむかぁ〜」という気持ちで聞いていましたが、
それは手でつかもうとしているような気持ちであると、何か出すのが当然だと計らっているのだ、と教えていただきました。
ですがそうすると結局「そうですか、じゃあただ助かればいいんですね?」というような気持ちになってしまいます。
計らいって本当にしつこいですね。(Rudelさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091206/1260053386#c1260114679

回答します。
「こうすればよいだろう」というのは、計らいの一つの表現です。
計らっても、計らわなければよいだろうも、言葉は違えど同じ計らいです。

二河白道の譬え話の中で言えば、此岸の岸部に立っている人は、どうしようかと考えても、考えなくても、一歩白道に踏み出さないという点では同じなのです。

一種として死を勉れざれば、われ寧くこの道を尋ねて前に向かひて去かん。すでにこの道あり、かならず可度すべし(二河白道の譬え・教行信証信巻より

どのみち死を免れることができないのであれば、私はむしろこの白道を尋ねて前に向かって進もう。すでに道はある、必ず彼岸に渡ることができるだろうと、旅人は最後決断します。

コメントで頂いた、計らいと言う言葉を使うと、何を思っても計らいならば、むしろ南無阿弥陀仏に救われよう、すでに阿弥陀仏が回向して下さっているのだから、必ず救われるということです。

白道が、河岸から断絶して、脚が届かないのであれば旅人は進むことができません。しかし、

東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く、〈きみただ決定してこの道を尋ねて行け。かならず死の難なけん。(同上

とあるように、東の岸の人は、勧めます。「ただこの道を行け」とあるように、河岸と道は途切れているのではありません。手や足を伸ばさないと届かないのではありません。
南無阿弥陀仏の道はすでにあるので、そこに一歩踏み出して、救われて下さい。