安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

本願通りになろうとするのではなく、本願に救われて下さい(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

「阿弥陀仏の本願どおりになる人」というところをもう少しお聞きしたいです。よろしくお願いします。

「いづれの行にても生死をはなるることあるべからざる」私であり、
そういうものをこそ助ける阿弥陀仏の大慈悲であると
そう聞きますと、そうかそうなんだと思うのですが、その通り本願の通りになりません。(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091203/1259792157#c1260022364

回答します。
「阿弥陀仏の本願どおりになる人」と書きましたのは、「阿弥陀仏が願われているとおりに救われた人」ということです。
しかし、これは、阿弥陀仏が願われたとおりになろうとしてなった人ではありません。阿弥陀仏は、「このような人になれ」と願っておられる仏ではないからです。阿弥陀仏は、「いづれの行にもて生死をはなるることあるべからざる」私を、何とか阿弥陀仏の浄土に生まれさせてやりたいと願っておられるのです。
阿弥陀仏は要求をしておられません。阿弥陀仏に救われる為に、「阿弥陀仏は大変なご苦労をされてきたのだから、それにお応えしなければ申し訳ない」という心は、何も要求されたり交換条件がない本願を、何か出すのが当然だと計らっているのです。
ただ救うという大慈悲心のままに救って下されるのが、阿弥陀仏の本願です。実際に働き、実際に救おうという大慈悲心ですから、ただの働きではありません。
どこかの慈悲のある方ということではなく、私自身に大慈悲をかけられているのです。

しかれば大悲の願船に乗じて光明の広海に浮びぬれば(教行信証行巻

親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願を大悲の願船といわれました。船というのは、私を浄土に渡して下される働きを喩えられたものですが、普通の船には心はありません。しかし、大悲の願船といわれるように、「大悲の願」そのものが船なのです。大慈悲心があり、私を助けようと願っている船ですから、私を助けて下されるのです。

色々な方が私にこころをかけて下さっているようで有り難いのですが、
申し訳ないことに私の方は一向に救われず、焦っているようでもあり逃げているようでもあります。
もう何を書いていいかよくわからないですし、書いてもどれだけ伝わるのか、またそれ以前に、書いたことが実際の心のどれだけを表せているかという疑問もあるのですが、がんばって書いています。口でだともっと言葉が少なくなってしまいますし。力が入らなくなってきた手で、何とかしがみ付き続けているような感じでしょうか。(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091203/1259792157#c1260022364

言葉というのは全部を表せませんが、言葉にしなければわかりません。言葉にしていこうということが、自分の心を見つめ、打ち出すことになりますので、こうしてコメントをされたと言うことは、大変よいことだと思います。

本願の通りになろうなろうというのは、手でなんとかつかもうとするのとおなじです。
本願の通りになろうとするのではなく、本願に救われて下さい。
阿弥陀仏の大慈悲は、待ち構えているのではなく、私に向かって届いているのですから。