安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

浄土往きの費用は全部阿弥陀仏の持ち分です(頂いた質問)

阿弥陀仏の救いはお構いなしというか、わかろうがわかるまいが、悪人だろうが闡提だろうが、何でもいいから、とにかくすぐ来い、というのが阿弥陀仏の御心でしょうか。(頂いた質問)

回答します。
仏の慈悲は苦あるものにひとえに重しといわれるように、苦しみ悩むものならなおさら救わずにおれないものです。

世雄の悲、まさしく逆謗闡提を恵まんと欲す。(教行信証総序

仏の大慈悲は、五逆・謗法・闡提の罪悪深重の者こそを恵み救おうとされているのです。
私に何かを要求はされないのです。阿弥陀如来の大慈悲心は、私を浄土往生させ、仏にさせるという働きを差し向けて、恵もうとされているのです。
私に対しては、回向されているのであって、何かを出しなさい、分かってきなさいとは要求されませんし、ただ、私を助けようとされているだけです。

もともと、私自身に、自分の力で生死を離れ、浄土に往生することができるのならば、阿弥陀仏は願を建てられません。

煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば(歎異抄3章

浄土往生するための手立てを、阿弥陀仏はすでに用意をされました。それを、私に対して差し向けてくださっているのです。

別の言い方をしますと、極楽行きの費用は全部阿弥陀仏が出させてくださいといわれているのです。このように申し出られるのも、私に浄土へ行くだけの力がないことを知っておられるからです。
浄土往生の費用は誰が出すかというのは、阿弥陀仏の持ち分なのです。そこには、私が納得するとか、あまり全部出していただくのは申し訳ないからと、少しでも出させていただかねばという計らいは無用です。最初から、全部出しますと阿弥陀仏が名乗りを上げられているのに、それをああだこうだというのは、阿弥陀仏の心が分からないからです。
少しくらい出さねば申し訳ないという心になって現れるのです。

小さい子供と外食に行った母と子供があったとして、会計の時に子供が「全部出してもらうのは申し訳ないから、少しでも出させてもらいます」といったら、親は喜ぶでしょうか?
子供は子供で、親に気を遣っているのですが、親は親で、子供を喜ばせよう、子供に美味しいものを食べさせようと思っているのですから心が違うのです。子供が喜べば、それで親は満足します。子供の気遣いは無用なのです。

浄土行きに費用を全部持つという阿弥陀仏の申し出に、あれこれとなんとか何かを出そうとする、分かろうとする、賢くなろうとする、善を積み上げようとするのは、阿弥陀仏の御心を疑って計らっているのです。
浄土行きの費用は全部持つぞと名乗りを上げられているのですから、そこに手出しをするのは、出される方の心に泥をかけているのです。しかも、それをよかれとおもってやるのですから、「雑行をこのむ心」とも蓮如上人はいわれています。その心は捨てものです。

往生については、全部まかせよといわれるのですから、往生の一段において、阿弥陀仏に全部まかせることを、弥陀をたのめといわれています。
必ず阿弥陀仏に救われます。阿弥陀仏が、全部まかせなさいといわれているから、直ちに来たれと呼びかけられるのです。