安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

信心はゲットするものではありません(前回の補足)

前回のエントリーの補足エントリーです。

南無阿弥陀仏をつかむことはできないとは、信心とはどういうものかということと関係があります。
信心獲得とはいわれていても、「信心」という固い何かをゲットすることではありません。

信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。このゆゑに、南無と帰命する一念の処に発願回向のこころあるべし。これすなはち弥陀如来の凡夫に回向しましますこころなり。(御文章5帖目5通・信心獲得

蓮如上人は、「南無阿弥陀仏のすがたをこころうる」といわれています。
昔から、天上の月が水面に映ったことを例えられています。

水面に月が映ったのが信心と例えると、水面に映った月は、水の所有物ではありません。月が常に水面を照らしているから映れているのです。

昔読んだ昔話にこういうのがありました。(うろ覚えなので出典不明)
月夜の綺麗な夜に、川面に月が映っていました。
それを見た猿のボスが、家来の猿たちに水面に映った月を持ってくるように命じました。猿たちは、川に入り手で水面に映った月を一生懸命すくおうとしますが、月を手に持つことはできませんでした。
困っていたところ、一匹の猿が人間の家の裏においてある水桶に映った月を見つけました。
「川だけでなくこんなところにも月があるのか、ついに月を捕まえたぞ」
こう思った猿は、水桶を抱えてボスのいる巣穴にはいりました。
「ボス、ついに月をつかまえました。」
「そうか、じゃあみせてみろ」
「このとおりです………あれ?、ないぞ」
猿が水桶をのぞくと、水面に映っていたはずの月がありませんでした。

水面に月が映ったといっても、月そのものが水中に沈んでいるのではありません。

南無阿弥陀仏の働きが、私の心に映れたことを、「南無阿弥陀仏のすがたをこころうる」といわれました。
常に働きかける南無阿弥陀仏の呼び声を、私が聞き続けているのが信心の姿です。