maryさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
キリスト教などでは「神を信じるものを救う」と言います。(信心も救いも定義はあいまいですが・・)疑い深い自分は、見たこともない神を信じることはできないから、救われないと思っていました。(例え見たとしても記憶は定かではないから、やはり救いの確証にはならないでしょうが。)
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091007/1254879629#c1255042922
御文章に「疑ってはいけない」とよく書かれてあります。
そうすると疑いをなくして信じた人でなければ助けて頂けない気がして、疑い深い私は助からない(あるいは、時間がかかる)と、どうしても思えてきます。
一時的に信じる気持が強くなっても、人の言葉を信じての事なので(結局自分の聴いて信じた心が根拠なので)その気持ちも続かず、また、人も言葉も疑い始めます。
疑い深い人が法に向かうのは難しい気がしますが、大丈夫でしょうか?
なくならなくても大丈夫な疑いもあるということでしょうか?(maryさんのコメント)
回答します。
キリスト教で信じるというのは、私から神を信じると言うことです。
阿弥陀仏を信ずるとは、阿弥陀仏から信じよの仰せに、従うことをいいます。
そこで、御文章における「疑い」という文字は、40カ所出てきます。
その内の一つを紹介します。
さて、わが身の罪の深きことをば打棄てて、弥陀にまかせまいらせて、ただ一心に「弥陀如来後生助けたまえ」とたのみ申さば、その身をよく知しめして助けたまうべきこと疑あるべからず。(御文章5帖目14通)
こちらの御文章でも「疑いを無くして信じた人でなければ助からない」ということは、言われていません。
一心に弥陀をたのむ身になった人が、阿弥陀仏が私を助けて下さるという働きに疑いがないということです。
「疑い」といっても、「疑い深い私」というのは、煩悩具足の凡夫には、決してなくならないものです。
「煩悩具足の凡夫」が、阿弥陀仏を信じられる者になるのが救われた姿ではありません。自力がすたったということは、煩悩のなかの疑いが全くなくなることではありません。
疑い晴れた名号を、疑いなく聞いたことが救われたということです。
- 疑いが有るものは、信じられない
- 信じられなければ、強い気持ちがでてこない。
- 強い気持ちが出てこなければ、救われない。
ということになれば、誰も救われません。最初から、疑っていない人は誰もいないのですから。
また、上記のような道理ならば、「私が疑わない」「私が信じる」という善根によって救われると言うことになります。
救われるかどうかの働きは、南無阿弥陀仏の名号一つです。
私が信じたからでも、私が疑わないようにしたからでもありません。一心に弥陀に帰命する身になるかどうかです。南無阿弥陀仏のすがたをこころうるかどうかです。
もう一つ頂いたコメントは、次回エントリーに書きます。