安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

私一人の本願と聞くことと、自力の心を離れることについて(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

阿弥陀仏の救いを、「十方衆生」とみるか、「私一人」と聞くか
どちらがよいのでしょうか?
「私一人」と聞き、私の姿を知ることと、「罪を罪と知ること」「自力の心を離れること」「回心懴悔すること」「阿弥陀仏の本願に救われること」とはどういう関係にあるのでしょうか?(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091001/1254401251#c1254410634

回答します。
どちらがよいかと聞かれれば、「私一人」と聞く方がよいと思います。

一 往生は一人のしのぎなり。一人一人仏法を信じて後生をたすかることな り。よそごとのやうに思ふことは、かつはわが身をしらぬことなりと、円如仰せ候ひき。(御一代記聞書

一人一人が仏法を信じて後生たすかることなのですから、私一人を助けるための本願であると聞くものです。救われるのも、他人のことではなく自分のことですから。

もう一つの、「私の姿を知ること」と、「罪を罪と知ること」「自力の心を離れること」「回心懴悔すること」「阿弥陀仏の本願に救われる事」は、全て阿弥陀仏のお働きによるものです。

順番をつけられるものでも、因果関係があるものでもありません。

こうなったら、自分の姿が知らされて、罪が知らされて救われるというようなものではありません。

ただ今救われる本願であると、救われる事が大事です。