ひろしさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
今私が自覚する自力の心とは
阿弥陀仏の本願に底を入れる心。
こんな私が助かるのだろうか、と思う心。
簡単に救われるならば、頂く信心が安っぽく思える心。
体や口では阿弥陀仏に向いているが、内心を見れば白々しい心。
信心決定したという人を見て、疑う心(人に対する疑いではなく法に対する疑い)。
例えば華光会の同人の様に親鸞会で言う「真剣な求道」をしていない人に対して、「そんなもんで救われるんだ」と思う心。
なんとか救われたいと思う心。
阿弥陀仏の本願を頭で理解しよう、と思う心。
頭では分かっていると思う心。
この心は自力、この心は煩悩と仕分けする心。そういう心です。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100118/1263774329#c1263819993
ご自分の心を打ち出していただき有り難うございました。
全体を通して私が感じることは、「法に対する疑い」よりも、方法論や他人と比較する心が多く出ているということです。
コメントの文面を勝手に分類してみました。
- 法に対する疑い
- 阿弥陀仏の本願に底を入れる心。
- 信心決定したという人を見て、疑う心(人に対する疑いではなく法に対する疑い)。(法についての疑いですが、内容は救いの有無に対する疑い)
- こんな私が助かるのだろうか、と思う心。(同上)
- 方法論・他人との比較
- 体や口では阿弥陀仏に向いているが、内心を見れば白々しい心。(心が変わればよいという方法論)
- なんとか救われたいと思う心。(何か方法を論ずる心)
- 阿弥陀仏の本願を頭で理解しよう、と思う心。(理解するという方法論)
- 頭では分かっていると思う心。(同上)
- この心は自力、この心は煩悩と仕分けする心。(同上)
- 簡単に救われるならば、頂く信心が安っぽく思える心。(他人と比較)
- 例えば華光会の同人の様に親鸞会で言う「真剣な求道」をしていない人に対して、「そんなもんで救われるんだ」と思う心。(他人と比較)
方法を論じるというのは、別の言い方をすると、救われた自分と救われていない自分の差を埋めようとする心です。救われた人と救われていない人という違いはあっても、差はありません。その「差分」を自分で埋めようというのが方法を考える心です。
また法に対する疑いの項目に(救いの有無に対する疑い)と書きましたのは、ただ今救われると言うことが有るのかという疑いです。それは、どうしても「ただ今」ではなくて、今はいないけれどもやがてやって来られる阿弥陀仏を迎えようという心です。阿弥陀仏の救いは不来迎です。
不来迎のことも、一念発起住正定聚と沙汰せられ候ふときは、さらに来迎を期し候ふべきこともなきなり。(御文章1帖目4通・自問自答)
不来迎ということは、一念で救われると言うときは、さらに来迎を待つこともないのだといわれています。
ただ今救われることがあるから、救いの有無は疑う必要はありません。
どうしたら救われるのかという疑問や、方法論の追求はどれだけいってもおわりがありません。不来迎なのになぜ助からないかという疑問が大事とおもいます。