安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「○○をしてから救われよう」になってしまいます。これではいたちごっこというか、ずっと救いとは平行線のままのように思われます。(頂いた質問)

しばらくブログの更新ができていませんでした。質問を頂いて時間がたっているものですが、記事に書きます.

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連続してお答えくださりありがとうございます。 | Peing -質問箱-
これについて、質問箱には以下のように書きました.

それで、自力を捨てて他力に帰するとか、御文章ではたびたび雑行を捨てて弥陀をたのめと言われます。

質問文に書かれているように、「○○をしてから救われよう」とするのは、「ただ今助ける助ける」本願とは異なります。いつまでたっても平行線になってしまいます.


そこでご自身が書かれているように、「発想の転換」が必要です。発想の転換というか前提条件の変更が必要です。それは、今までは「○○してから救われる」というように、まず自分の行為が先にあって、それによって救われようというように考えておられたと思います。


そうではなくて、阿弥陀仏がすでに私を助けにと呼びかけられているというのが前提となっているように頭を切り替えてください。阿弥陀仏のいわゆる喚び声というのは、私があることをすることに呼応して出てくださるものではありません。


私が救いを求めるより先に、この世に生まれる前からも常に呼び続けられているものですから,今そうとは思えなくても、この南無阿弥陀仏が私を救ってくださる阿弥陀仏の働きそのものだという前提に立ってください。


「助けてもらうために何かをする」のではなく、「お助けをただ聞く」ということです。それでも、助かるために何か必要なのではないかと思い、何かを用意していこうと考えますが、それを捨ててくださいと言われるのが「雑行を捨てて弥陀をたのむ」ということです。

 聖人(親鸞)一流の御勧化のおもむきは、信心をもつて本とせられ候ふ。そのゆゑは、もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたまふ。(御文章5帖目10通・聖人一流章 浄土真宗聖典註釈版P1196)

http://urx3.nu/pWOj

と御文章にも書かれていますが、「もろもろの雑行をなげすてて」と聞くと、何かを「捨てるという行為をする」ことによって「一心に弥陀に帰命」するように思う人もあると思います。私もそう考えていた時がありました。しかし、「捨てるという行為をする」のではなく、質問された方の文脈にそって言えば「そもそもしない」という意味です。言い換えれば、「何かをしようと思わない」ことです。何かをしようという前から、阿弥陀仏は私を救うと南無阿弥陀仏となって呼びかけられています。その南無阿弥陀仏をただ聞いて疑いないのが信心です。

ただ今助けると南無阿弥陀仏を聞いて、ただ今救われてください。