安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

(修正・再掲)煩悩という執着が無くならない世界での救い(Kさんのコメントより)

※わかりにくいというコメントを頂きましたので、修正したものを再掲します。

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

何か私が救いとはこういうものだというものを持っているかのように思われるかもしれませんが、そうではありません。
救いようがない絶望的状態であって、それでもなおかつ、何とかしたい、なんとかできなければ困るという状態です。それが解決されるということがあるとしたら一体どんなことなのか?想像もつかない、考えれば考えるほどどうにもならないということを見せ付けられるだけです。
そこへ「救い」があると言う人が現れたので、それは本当か?本当なら一体どんなことなのか?と当然思うわけです。

この絶望的な状態というのは分かる人には分かりすぎるくらい分かると思います。何も変わった考えではなく、極めて自然な考えによって導かれた結果をただ真っすぐに見ただけです。
お釈迦様が父王に出家の許しを請われたとき、老病死の無い身になることが私の願いであると言われています。
私も同じです。誰しも同じはずです。
山も山様は違うのですか?(Kさんのコメント)

回答します。
Kさんの言われる、絶望的な状況とは、生きることへの執着があっても、死んでいくことは免れないことだと思います。

執着はあっても、それは救いになるということを、よく知られている歎異抄9章のお言葉から紹介します。

また浄土へいそぎ参りたき心のなくて、 いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんと心細くおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫より今まで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生れざる安養の浄土は恋しからず候こと、まことによくよく煩悩の興盛に候にこそ。名残惜しく思えども、娑婆の縁尽きて、力なくして終わるときに、かの土へは参るべきなり。いそぎまゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候ひなましと云々(歎異抄9章)

(意訳)
浄土へ急いで行きたいという心もなくて、病気にでもなると死ぬのではないだろうかと心細く思うことも、煩悩のなせるわざである。長い昔から今日まで流転をしてきた苦悩の世界は古里のように捨てがたく、いまだ生まれたことのない阿弥陀仏の極楽浄土は恋しいと思わないのも、煩悩がしきりに動いて、減りもしていないからである。いくら生きていたいと思っていても、この世との縁がつきて命が終われば、阿弥陀仏の浄土へ往くのだ。急いで浄土へ往きたいという心のないものを、特別に哀れに思われて願を起こされたのだ。だから、阿弥陀仏の本願はたのもしく、往生は間違いないと知らされる。踊躍歓喜の心もあり、急いで浄土へ往きたいという思うこころがあったら、煩悩がなくなったのではないかと思ってしまうところだ。

このように煩悩(執着)は、救われた後もなくなりませんし、無くなったならば、煩悩具足の凡夫を助けるために建てられた阿弥陀仏の本願とあわなくなります。
死に対する恐怖心、この世への執着は有りますが「力なくして終わるときに、かの土へは参るべきなり」ですし、「いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ」と本願をたのもしく、喜ぶこころが、救いです。

私にとっても大問題は、煩悩による生への執着からくるものですが、阿弥陀仏にとっての大問題は、生死流転から離れることが出来ず、浄土に生まれさせることが出来ないことなのです。

仏法を聞く入り口としては、Kさんの言われる問題から入る人は多くあると思います。しかし、阿弥陀仏に救われた世界が、入り口で想像した通りのものならば親鸞聖人も「不可称不可説不可思議の信楽」とはいわれません。

以上、修正したものをエントリーしました。質問された方や、文章を読まれた方が、分かる文章が書けるように今後も精進いたします。