安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

阿弥陀仏の救いとは何か?(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

無量寿とは仏とは常住の極楽とはどんなことなのか、というのは阿弥陀仏の救いは何かということなのですが、それが私が求めることに応え得るものかどうかがはっきりしないので知りたいです。

元々は、まず、死なないことを望んでいました。
しかしそれが無理だと分かってくると、それに変わるものを探し求めるようになりました。ですがそんなものはありません。真実とか真理とか、表面的に見えている世界ではないもっと根本的で不変な世界は魅力的でした。そういったことを知ることで永遠に生きる替わりになるのではないかと思ったりもしました。しかし真理を知ることができたとしても全く何にもならないという結論に至りました。
そんなとき親鸞聖人の教え、阿弥陀仏の救いを知り、とても驚き、喜び、大変期待しました。本当なのかどうか、もっと詳しく知りたいと思って続けて聞きました。ところが正直なところ、期待はずれでした。本当なのかどうかどころか、どういうものなのかさえ、ほとんど分かりませんでした。10年以上聞いてますがこの安心問答で分かったことのほうが多いかもしれません。
そこで改めて最初からやり直したいと思っています。できなかったことをもう一度、今度はもっときちんと納得できるように。ただ申し訳ないですが、また糠喜びになるのが怖いのであまり期待もできません。その上でお答えいただけるでしたら有り難いと思いますので、どうかよろしくお願いします。
(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090526/1243322484#c1243434476

回答します。
Kさんの書かれている内容を読んで、ご自身が求めてこられたことというのは、「私というもの」がいつまでも続くことを求めてこられたけれども、不可能なので、変わらない真理を求め、阿弥陀仏の救いを求めるようになったということだと理解しました。

そこで、阿弥陀仏の救いが、元来求めていた死なないこと(不滅の自己)と比較してどうなのかという質問ではないかと思います。違っていたらまたコメントをお願いいたします。

阿弥陀仏の本願は、お釈迦様が仏のさとりを開かれて、私たちに説かれたものです。その釈尊の教えに従い、自ら阿弥陀仏の本願に救われた親鸞聖人が教えていかれた教えが浄土真宗です。

浄土真宗とは何かについて、親鸞聖人は教行信証教巻に書かれています。

つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の廻向あり。一つには往相、二つには還相なり。 (教行信証教巻)

浄土真宗、阿弥陀仏の救いには二つのいただきものがある。一つは往相、二つは還相である、といわれています。
往相とは、往生浄土の相状のことで、生きているただ今、阿弥陀仏から南無阿弥陀仏を賜り、信心決定の身となった人が、浄土へ往生する身になり、死ねば極楽浄土へ往生し、仏のさとりを開くことをいいます。
還相とは、還来穢国の相状のことで、死んで弥陀の浄土へ往生した人が仏のさとりを開き、衆生済度に苦しみの世界にかえってきて活動をすることをいいます。

阿弥陀仏の救いとは、教行信証のお言葉で言えば二種の廻向を賜ることをいいます。別の言葉で言えば、南無阿弥陀仏を阿弥陀仏から賜ることをいいます。
Kさんの質問は、「本当なのかどうか」という点にあるのではないかと思います。
親鸞聖人の教行信証をはじめ、覚如上人、蓮如上人のかかれたものには、阿弥陀仏の本願と、本願の救い一つを勧めておられます。それが「本当なのかどうか」という事にお答えする際には、どういう点で疑問が生じているのかを、改めてお尋ねしたいと思います。

Kさんのコメントをお待ちしております。回答が、中途半端になっており、申し訳ございませんでした。

死にたくないというのは、生きているものの本能であり、非常に強い執着の心です。阿弥陀仏に救われるとは、「死にたくないの執着」がなくなることではありません。また、「私という自我」は阿弥陀仏に救われても、死ねば無くなるものです。執着がなくならなくても、私という自我がなくなっても、南無阿弥陀仏のはたらきで、阿弥陀仏の浄土へ往生するのです。
そのことについてあれこれ計らう心が自力の心といい、それを捨てよ、阿弥陀仏をたのめと教えられるのが浄土真宗です。