安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

仏智疑う罪とはどんな心か?(maryさんのコメント)

maryさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

 『仏智疑う罪ふかし この心思い知るならば 悔ゆるこころをむねとして 仏智の不思議を頼むべし』(正像末和讃)
の、『この心』とは、どんな心でしょうか?『仏智疑う罪がふかい』とは、どのように知らされてくるのでしょうか?
(maryさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090318/1237329991#c1237382989

回答いたします。
親鸞聖人のご和讃についてのお尋ねです。

仏智うたがう罪ふかし
この心おもいしるならば
くゆる心をむねとして
仏智の不思議をたのむべし(正像末和讃)

ここで「この心」とは、「仏智疑う罪」のことです。
阿弥陀仏の智慧を疑う心のことですから、阿弥陀仏の本願を疑う心のことです。
これは人によっていろいろと表現が変わります。理性的な人は、理性的に疑っていきますし、感情的な人は感情的に疑います。
「ただ今救うという本願なのに、なぜ自分は助からないのか?」と思ったときに、出てくる心が「仏智疑う罪」であり、疑情なのです。
理性的な人でいえば「理屈から言えば助かるはずなのになぜ助からないのか?なにか原因があるのか?」と考えるところから始まりますし、感情的な人で言えば「助からないのは、喜べないからなのか?地獄行きと思えないからか?」と考えるところから始まる人もあります。

どのように知らされてくるのかということについては、これは自分の心に出てくるものですから、「ただ今救う本願」にただ今救われようとしたときに出てくる心です。言葉上の表現は人によって異なります。
この心が恐ろしい心であると知らされれば、捨てねばならないものだとわかります。なんとかしようと思います。
しかし、仏智疑う罪を知ることが目的ではなく、ただ今救われると言うことが大事なのです。

短い説明ですみません。また詳しくかきます。
カナダ人さんへ、明日エントリーを書きますのでよろしくお願いいたします。