安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「ただ今救われる」と「救われると思う」ことの違いについて(maryさんのコメントより)

『今救って下さるんだ、と思おうとしていること』と『今救われることが目的』というのは、なにか違うのでしょうか?
(maryさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090315/1237071598#c1237284874

「今救われると思う」ということと「今救われる」のは違います。
また、「今救われると思ってから、やっと救われる」と思っていては、現在ただ今救われることは無くなってしまいます。
そのように段階を自分で作り上げると、「今救われようという心を起こす」ことが目的化してしまいます。阿弥陀仏が本願を建てられた御心は「ただ今往生一定の身に救う」ことであって「救われたいという心を起こす」ことではありません。
親鸞聖人は、このように言われています。

如来の作願をたずぬれば
苦悩の有情をすてずして
廻向を首としたまいて
大悲心をば成就せり(正像末和讃)

阿弥陀如来が本願を作られた御心をお尋ねしてみると、三世の諸仏に捨てられた苦しみ悩みの私たちを捨てず、ただ今救うことを目的として、本願を完成されたのだと言われています。
確かに、仏法を聞こうとする心も阿弥陀仏の願力によるものですが、「仏法を聞こうとする心を起こさせる」ことそのものが、阿弥陀仏が南無阿弥陀仏をつくられた御心ではないのです。あくまでも南無阿弥陀仏を与えて、ただ今救うことが目的なのです。無常は迅速ですから、「救われようという心」を起こしている間に、この肉体の命がなくなることがあるのです。

かかる世の中の風情なれば、いかにも一日も片時も急ぎて信心決定して、今度の往生極楽を一定して(御文章4帖目13通・秋去り春去り)

急ぐのは、信心決定して、今度の極楽往生を一定することなのだと蓮如上人の言われているとおりです。

阿弥陀仏のことを念じられるということは、阿弥陀仏の願力の働きによるものであり、その御心を知り涙が出るとすれば、如来大悲の涙なのです。もとより泣くようなものではありません。泣くような者なら、三世の諸仏は見捨てないのです。

ただ今救うのが阿弥陀仏のお仕事です。その本願の通り、ただ今南無阿弥陀仏の名号を阿弥陀仏から頂いて、ただ今救われて下さい。