安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

真剣さや集中力と救いは関係ありません(おしゃまさんのコメント)

おしゃまさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

私はいつも(このまま聞法していけば、いつかは疑いなく本願を聞ける日が来るだろう。)と思っています。
だから、どちらかと言えば加点方式の考えでいると思うのですが・・・。
でも、その一方で(さっさと聞き開ける人と自分との違いはどこにあるのだろう?)ということも考えます。
そして出す結論は・・・「真剣さがたりないから。」つまり「私はのんびりしているから助からない。」ということです。
「真剣な人を助けるという本願ではありません。」と、いつも山も山さんに教えてもらっているんですけどね・・・。
(こういうふうに計らうから自分はダメなんだ。)と思う私は、やっぱり「減点方式」ですよねぇ。(おしゃまさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20101220/1292829931#c1293021798

救われないのは真剣さが足りないからではありません。
「いつかは」と、ただ今救う本願を疑うからです。
「いつかは」を前提として、救われた人と自分を比べてみたり、真剣さが足りないと考えておられるとのことですが、その前提はご自分で考えられたことではないでしょうか。
ただ今救う本願であると聞かれても、聞いた後、どこかで「いつかは助かる日が来るだろう」と変わっていると思いますが、その理由は何だと思われるでしょうか?

阿弥陀仏の大慈悲からいえば、ただ今の私を救わない理由はありません。たとえ私が、どのような人間であっても、そのまま救って下さいます。

願力無窮にましませば 罪業深重もおもからず
 仏智無辺にましませば 散乱放逸もすてられず(正像末和讃37)

真剣さがない人でも、のんびりしている人でも阿弥陀仏の願力には限りがありませんので、必ずただ今救って下さいます。