安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

阿弥陀仏のただ今の救いを否定する心は謗法罪か?(元会員さんのコメント)

元会員さんからコメントを頂きました。有り難うございました。

1)阿弥陀仏の本願に救われようとむかったときに謗法罪を犯すとしたら
 阿弥陀仏の本願に救われようとすることは謗法罪を行うという危険を冒すと言うことでしょうか?
2)そもそも現在の阿弥陀仏の現在の救いを否定する心が謗法の罪になるという論理はどこから来たのでしょうか?お聖教でしょうか、それとも獲信して知らされるんでしょうか?唯除五逆誹謗正法がその根拠だと言われるのでしたら、違うような気がします。(元会員さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090929/1254207424#c1254282305

回答します。
1)については、阿弥陀仏の本願に向くと謗法罪を造るというよりは、謗法罪を造る者と知らされると言うことです。
 煩悩具足の凡夫が、阿弥陀仏の本願に向かうと、謗法の者という姿にもなるということです。
 謗法罪を造らなかったら助かると言うことでもありませんし、謗法罪を造ったから助からないということでもありません。
 阿弥陀仏の救いは、逆謗の者でも救うという本願ですから、一番罪の重い逆謗・闡提のものを目当てに建てられています。

世雄の悲、まさしく逆謗闡提を恵まんと欲してなり。(教行信証総序)

と言われているところからもわかります。

 また、「謗法罪を行う危険を冒す」という言い方は、謗法罪を造れば救われないということになりますが、そうではありません。

謗法と闡提と回心してみな往くによる(善導大師・法事讃)

と善導大師もいわれています。

2)について回答します。
阿弥陀仏の救いを否定する心がなぜ謗法になるのかという根拠は、以前のエントリーでも紹介しましたが、以下の部分です。

問うていはく、なんらかの相か、これ誹謗正法なるやと。
答へていはく、もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩報といはん。かくのごときらの見をもって、もしは心にみづから解り、もしは他に従ひてその心を受けて決定するを、みな誹謗正法と名づくと。(教行信証信巻・往生論註引文)

どういう姿が、誹謗正法なのかという問いに、答えとして、無仏、無仏法というものであると言われています。仏や、仏の教えを否定するものが謗法の姿ですから、阿弥陀仏のただ今の救いを否定すれば、誹謗正法となります。

阿弥陀仏に救われるのは、十方衆生ですが、私にとって問題なのは、自分が救われるかどうかです。
阿弥陀仏の本願に向かい、自分は謗法罪を造っている者だと知らされるかどうかは、一人一人が知らされることです。
私自身は、ただ今の救いであり、往生に役立つものは何も無いと聞かされていても、何か手立てを捜さずにはおれない自分と知らされ、謗法の者と知らされました。

どんな罪のあるものでもと、見抜いて本願をたて、五劫思惟の願を建てられたのですから、南無阿弥陀仏には、罪の大小によらず必ず救う力があります。
ただ今阿弥陀仏の本願に救われて下さい。

追記

林遊さんのコメントから、引用→引文に修正しました。