安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

善知識の教えに信順と、善知識に心酔は違います(よこやりさんのコメント)

よこやりさんからコメントを頂きました。有り難うございました。

「どんなことがあっても先生からは絶対離れたくない。」とか「先生がおられなくなったら自分の人生も終わりだ」とか「先生のご恩を返しきれない」とか言われる方々の言葉を聞くと、自分の気持ちとはかけ離れていて、こういう気持で聞く人でないと聞ききれないのでは?自分は根本的に何か間違っているのでは?
と不安になります。
親鸞聖人も法然上人を心から信じて聞いておられました。
いつかそういう気持になることがあるということでしょうか?
変な質問ですみません。よろしくお願いします。
(よこやりさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090301/1235862735#c1235921610

信心決定というのは、「一心一向に弥陀に帰命」したことをいいます。「一心一向に善知識に帰命」したことではありません。信心決定は阿弥陀仏のお仕事であり、善知識の仕事は、「阿弥陀仏の仕事だ」と教え、方向を指し示す人のことです。
そのことを蓮如上人はこのように言われています。

されば、善知識というは「阿弥陀仏に帰命せよ」と言える使なり。宿善開発して善知識にあわずば、往生は叶うべからざるなり。しかれども、帰するところの弥陀を棄てて、ただ善知識ばかりを本とすべきこと、大なる過なりと、心得べきものなり。 (御文章2帖目11通・五重の義)

善知識というのは「阿弥陀仏に救われてください」という阿弥陀仏の使いの者である。ここ一つという心になっても善知識に会わねば極楽往生の身になることはできません。しかし、救ってくださる阿弥陀仏を捨てて、ただ善知識ばかりを尊く思うのは大変な間違いであると蓮如上人は言われています。
「一心一向に弥陀に帰命せよ」と教える人が善知識ですから、そのように教える人をさして言われています。
親鸞聖人も法然上人のことをいわれているのもそのように言われています。

昿劫多生のあいだにも
出離の強縁しらざりき
本師源空いまさずば
このたびむなしくすぎなまし(高僧和讃)

長い長い多生の間、私を助けるという阿弥陀仏の本願を知ることができなかった、法然上人がおられなかったら、今生も空しく過ぎていったことでしょうといわれています。
これは阿弥陀仏に救い取られた上でいわれていることですが、あくまでも「阿弥陀仏に」救われたのであって、それを教えてくださったのが法然上人です。
説かれる方を尊敬するのも、「その人尊からずして、説く法尊し」で、法が尊いのです。
恩徳讃も

如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし(正像末和讃)

といわれています。阿弥陀如来のご恩徳「は」身を粉にしても報いずにおれないといわれ、師主知識の恩徳「も」骨を砕いても報いずにおれないといわれています。
師主知識の恩徳がなぜあるのかといえば、如来大悲の恩徳があるからです。阿弥陀如来のご恩徳と、師主知識の恩徳は、同じではないのです。

こういう気持で聞く人でないと聞ききれないのでは?自分は根本的に何か間違っているのでは?

といわれますが、阿弥陀仏に心が向いていなければならないのです。
よこやりさんが言われるような言い方では、「知識に心酔」であって「信順」ではありません。「一心一向に弥陀に帰命せよ」という善知識の説く「教え」に従うのですから、阿弥陀仏に心を向けねばなりません。

あわれあわれ、存命の中に皆々信心決定あれかしと朝夕思いはんべり(御文章4帖目15通・大阪建立)

このように蓮如上人はいわれています。信心決定を命のあるうちにするのが、親鸞聖人、蓮如上人も喜ばれることなのです。それは、阿弥陀仏がもっとも喜ばれることだからです。善知識とは、一心一向に弥陀に帰命せよと教え勧める人であって、阿弥陀仏と私の間にいる門番ではないのです。
門番だと思うから、知識の顔色を伺ったり、どれだけ心酔しているかを人にまでいうようなことになるのです。
よこやりさんが言われるようなことで不安になる必要はありません。ただ今弥陀に救われる時が必ずあります。