安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

真剣な聞法は、手段であって目的ではありません(フーテンの虎さんのコメント)

フーテンの虎さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

私は以前より聴聞している時、睡魔がおそってくることがありました。今回も睡魔が襲ってきてこれではいけないと言い聞かせ、聴聞していました。何のために聞いているのか、情けなくなりますが、どうしようもないのです。今晩死んだらと思うと不安でなりません。どうすればよろしいですか。
(フーテンの虎さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090301/1235862735#c1235915348

聴聞中に睡魔が襲ってくると言うことですが、フーテンの虎さんのコメントを読む限りでは、話が聞きたくなくて眠くなると言うのとは違うようですね。よこやりさんがコメントされたように、肉体の疲れや、睡眠障害のようなことも原因の一つかもしれません。
真剣に聞いたら眠くなどならないはずだから、睡魔が襲う自分は真剣に聞いていないのだと反省をされているのだと思います。
もちろん火の中分けてもという気持ちになれば、眠くなるということはないでしょう。しかし、睡魔が襲ってこない=真剣に聞いているということではありません。大事なのは、心の問題です。
「真剣に聞く」ために、聴聞するのではありません。「ただ今弥陀に救われる」「信心決定」が目的なのです。睡魔が襲ってくるようなことがあると、これではいけない「真剣に聞こう」という心になり、「睡魔が襲ってこないようにするにはどうしたら」とか「あれを飲んだら」とか、「こうしたら」と聞法中に頭がすっきりすることが目的となってしまいます。
もちろん、体が疲れていては仏法は聞けません、食べるものも食べずにいたり、ストレスをたくさん抱えていては仏法は聞けません。聞法求道というと、聖道門仏教のように自分の体を痛めつけることが良いことのように思う人もありますが、そうではありません。以前のエントリーで、「オリンピックの金メダルを取るより大変と聞いたことがある」と書かれた方がありましたが、スポーツ競技でも体調を万全に整えて参加します。仏法を聞くことも同じ事です。
しかし、オリンピックは参加することに意義があるのかもしれませんが、仏法は聞法の場に参加することに意義があるのではありません。

何の為ぞというに、更に他の事にあらず、自身の往生極楽の信心獲得の為なるが故なり。(御文章4帖目12通・毎月両度)

何のために仏法の場に集まるのかと言えば、さらに他の目的はありません。自分自身が往生極楽の身になるため、信心獲得の身になるためであると蓮如上人は言われています。

現在ただ今信心決定の身になろうという心が抜けてしまったら、目的がかわってしまいます。反省するのは、真剣に聞けなかったことではなく、信心決定の身にまだ救われていないことなのです。
「真剣に聞けたから、こうしておればそのうち助かるだろう」という心ならば、いつまでたっても、ここ一つの心にはならないでしょう。