安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「聴聞しなくても救われる」「聴聞したら救われる」ということについて(悲しい気持ちさんのコメント)

2009-03-02のエントリー(真剣な聞法は、手段であって目的ではありません(フーテンの虎さんのコメント) - 安心問答(浄土真宗の信心について))に悲しい気持ちさんからコメントを頂きました。

昨日の御法話で、二千畳に来て一日座って寝ているだけでも善なんです。二千畳で半日聞いて帰っても、玄関までしか来なくても大変な善なんです、と聞きました。

親友部員で食事関係の仕事をしている人がありますが、2月は2回連続で二千畳の聴聞が全く出来なかったと知りました。

心掛けが良ければ、阿弥陀仏に救われるためには、聴聞しなくても救われるのでしょうか?
(悲しい気持ちさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090302/1235954248#c1235972928

結論から言いますと、「雑行雑修自力の心が廃らなければ」という以外のことで、○○しなければ救われない、○○しなくても救われるということは、浄土真宗ではいいません。

いかに不信なりとも聴聞を心に入れて申さば、御慈悲にて候間、信を獲べきなり。只仏法は聴聞に極まることなり。(御一代記聞書)

どれほどまだ阿弥陀仏に救われていない人であっても真剣な心になって聴聞するひとは、阿弥陀仏の願力によって、信心獲得の身になるのだ。ただ仏法は聴聞に極まると、蓮如上人は言われています。
私が聴聞したら、私が足を運んだら、それによって救われると言うことではありませんが、「聴聞しなくても救われる」ということにはならないのです。

悲しい気持ちさんのコメントについて、一つお尋ねします。
「心掛けが良ければ」というのは、「真面目に求めていれば」ということでしょうか?
この部分について、お答えしようと思いましたので、ご返答お願いいたします。