安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

御恩報謝の念仏は、信心決定の上ですから早く弥陀に救われて下さい(姥さんのコメントより)

姥さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

18願は極悪煩悩の消滅一念摂取不者往生の願で無くご恩報謝の願(乃至十念)に読み取れるんですが・・・
(姥さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090225/1235512283#c1235608567

回答をいたします。
ご恩報謝の念仏を称えさせてみせると、阿弥陀仏は18願で約束をされています。
御恩報謝というのは文字通り、ご恩に対して感謝して報いるといういみです。このご恩というのは何のご恩かと言いますと、蓮如上人は、このようにいわれています。

この信心をよくよく決定候わでは、仏恩報尽と申すことはあるまじき事にて候。(夏御文2通)

信心決定の身に救われていなければ、阿弥陀仏のご恩に報いると言うことはありませんといわれています。ご恩というのは、阿弥陀仏から受けるご恩ですが、何かを頂くからご恩と言うことがあるのです。阿弥陀仏のご苦労というのは、すべての人を、極楽往生の身にするためのご苦労ですから、信心決定の身になってこそ、阿弥陀仏のご苦労に報いることになるのです。

その上の称名念仏は如来わが往生を定めたまいし御恩報尽の念仏と心得べきなり。(御文章5帖目10通)

その上で称える念仏は、阿弥陀仏が極楽往生を定めて下さったご恩に報いる念仏になるのです。念仏を称えさせると阿弥陀仏は本願に誓われていますが、その念仏はお礼の念仏ですから、お礼の念仏を称えさせると言うことは、同時に極楽往生の身にならなければ、お礼もありませんので、往生を治定の身にする、信心決定の身にするというお約束です。

仏恩報謝の念仏は、阿弥陀仏から称えさせられるものですから、救われる前にいくら称えたと言うことによって、それが報謝の念仏になると言うことでもなければ、称えた念仏で往生が決まると言うことでもありません。

ただ何の分別もなく南無阿弥陀仏とばかり称うれば皆助かるべきように思えり、それはおおきに覚束なきことなり。(御文章3帖目5通・諸仏悲願)

なにも分からなくても南無阿弥陀仏とばかり称えていれば、いつかは助かるように思っているが、それは大変覚束ないことであるといわれています。
念仏称えていればそのうち信仰が進んで、いつか救われるということではないのだと、蓮如上人はいわれています。念仏も行ですから、仏教で言う諸善も行です。なにかそういう行を励んでいれば、いつかは助かる、信仰が進んでそのうち助かるだろう思う心が自力の心です。

念仏を称えることが悪いのではなく、「助かるべきように思えり」の心が問題なのです。
行についてはみな同じ事がいえます。行が悪いのではなく、それで助かるように思う心が、捨てねばならない自力の心です。
その自力の心を捨てなさいと言うことは、早く信心決定して御恩報謝の身になりなさいということです。
阿弥陀仏が報謝の念仏を本願に誓われているのも、早く御恩報謝の身になりなさいということです。

それは、早くとはいっても、ただ今のことです。明日という間もありません。現在ただ今阿弥陀仏に救われ、仏恩報謝の念仏を称える身になって下さい。