安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

信心決定は、一念ですか?十念ですか?(姥さんのコメントより)

姥さんよりコメントを頂きました。

一念のただ今の救いになっていなければ救われないと言われますが.阿弥陀如来様の18願念仏往生の願は(設我得仏十方衆生至心信楽欲生我国乃至十念若不生者不取正覚唯除五逆誹謗正法)何故十念の者と言われるんですか?信心決定は一念ですか、十念でしょうか、教えて下さい。
(姥さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090225/1235512283#c1235554544

maryさんのコメントも頂いておりますので、こちらもご覧下さい。

私からも回答をいたします。
姥さんより、頂いた質問は、阿弥陀仏の本願に十念とありますが、阿弥陀仏の救いは、信心決定は、一念ですか、十念ですか?というお尋ねです。

結論から言いますと、信心決定するのは一念のことです。十念とは、救われたお礼の念仏です。それについて、蓮如上人は以下のように教えておられます。

一念をもっては往生治定の時刻とさだめて、その時の命のぶれば自然と多念に及ぶ道理なり。
これによりて、平生のとき一念往生治定の上の仏恩報尽の多念の称名とならうところなり。然れば祖師聖人御相伝一流の肝要は、ただこの信心一に限れり。これを知らざるをもって他門とし、これを知れるをもって真宗のしるしとす。(御文章2帖目3通・神明三箇条)

一念というのは、往生治定(信心決定)の時剋のことで、その上で命がある間はお礼の念仏を称えさせてみせるという阿弥陀仏の本願によって、命のある間は、10回でも100回でも、千回でも御恩報謝の念仏を称える(多念)になるのです。
これによって、現在ただ今の一念に阿弥陀仏に救われ弥陀の浄土に往生間違いない身になって(信心決定して)、御恩報謝の念仏は命のある限り称える身になるのである。だから、親鸞聖人のみ教えのもっとも大事なことは、このただ信心一つに限るのだ、これを知らないのを浄土の他門といい、これを知るのを浄土真宗というのだといわれています。
阿弥陀仏の本願に、十念の念仏が誓われていますが、これは御恩報謝の念仏のことですから、信心決定した上でのことです。だから、十念の念仏の前には、必ず真実信心決定がありますから、親鸞聖人の教えの肝要は、信心一つなのです。
一念という時剋の極促で、阿弥陀仏から賜る信心ですから、どんな人も救われるのです。
反対に言えば、一念で救う本願でなければ、どんな人も助けると言うことはできないのです。

如来の大悲、短命の根機を本としたまえり。もし多念をもって本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもって淵源とす。(覚如上人・口伝鈔)

阿弥陀仏の本願は、命が大変短い我々を目的として建てられたものです。もし、救うのに時間がかかる本願ならば、命があと少しでなくなる臨終の人は、どうやって本願に救われる事があるでしょうか。だから、阿弥陀仏の本願は、一念で救われるというのがもっとも大事なところなのであり、浄土真宗の肝要なのですと、覚如上人も言われています。

信心一つが要ですから、一念で救われると言うことがもっとも大事になってくるのです。

私は求道したいのではなくて、信心決定したいです。一念のただ今の救いに向かって行きたいと思います。
(よこやりさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090225/1235512283#c1235562332

よこやりさんからコメントを頂きました。有り難うございます。
ただ今救われると言うことが目的ですから

庄松同行が背を向けたのは、(庄松同行のいう通りにすれば救われるだろう)と安心しようとする心を捨てて、
ひたすら阿弥陀仏に向かっていけ、ということでしょうか・・?
(よこやりさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090224/1235434008#c1235560621

庄松同行が、このようにしたのも、ただ今救われろ、自力のその心をただ今捨てなさいと言うことです。「向かっていけ」では、一念の救いではありません。

「こうしていけば」は、信心一つ、一念往生に反する心です。それを捨てよといわれているのが、「自力の心をふりすてて」なのです。

姥さんより質問を頂きましたが、ただ今救われる事が必ずあります。