安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

阿弥陀仏の本願以外のことを説かれた理由(BHさんのコメントより)

BHさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

如来所以興出世 唯説弥陀本願海
なのならば、釈尊はなぜ当時の人々にすぐ弥陀の本願をとかなかったのですか?
聖道仏教は横超とちがって時間がかかるでしょう?
そんなものをなぜ教えたのですか?
(BHさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090221/1235174934#c1235215649

前回の回答は、質問された意図にお答えできておりませんでした。申し訳ございませんでした。

BHさんがいわれるように、親鸞聖人は正信偈に、

如来所以興出世 唯説弥陀本願海

といわれ、仏様が世に出られたのは、ただ一つ弥陀の本願を説くためであったといわれています。
それならば、なぜ弥陀の本願以外のことを説かれたのか?という質問だと理解しました。また、間違っていたらコメントを頂ければお答えします。

それ真実の教を顕さば、すなわち『大無量寿経』これなり。(教行信証)

と、親鸞聖人は教えられています。大無量寿経が、真実の教えを説かれたのならば、他の経典は不要ではないかと思われる方もあるでしょう。

前回のエントリーでも書きましたが、仏教は対機説法でありますので、その人その人に応じて、理解できるような言い方で説かれています。法華経をはじめとした、聖道仏教の教えも、そういう教えでないと仏法を聞けない人が多いのです。

仏語に虚妄なしですから、経典の通りのことが実践できれば、さとりが開けますというのが、聖道仏教です。実際にそれで、修行をし、お釈迦様の時代にはさとりを開いた方もあったようです。

親鸞聖人の時代でも、弥陀の本願を親鸞聖人が説かれたとたんに、聖道仏教の人たちが、一斉に浄土仏教に帰依しなかったところからも、「どんな人でも救われる」という教えだからといって、誰でも彼でも聞くということにはならないと言うことです。
まして、お釈迦様の時代なら、なおさら聞く人は少なかったと思われます。相手に分かるようにと話をしてゆかれた結果が、いろいろな経典となったのです。決して、不要なものではありませんでした。

BHさんは、ご質問の内容から、阿弥陀仏の本願を聞いておられる方だと思いますが、それは大変有り難いことで、そのように聞ける人は仏法聞き難しでなかなかおられないのです。

聖道仏教の教えも、お釈迦様の説かれた仏説ですから、蓮如上人はこのようにもいわれています。そんなものと呼んではならないのです。

いずれも仏説なり。あやまりて謗ずることなかれ。それ皆、一宗一宗のことなれば、わがたのまぬばかりにてこそあるべけれ。(御文章1帖目14通・立山白山)

聖道仏教も、仏説であるから、まちがっても謗ることはあってはならない。教えは、その宗派によってあることだけれども、それは、私が助かるかどうかを考えて、信じないだけなのだといわれています。

教えは、仏説ですが、それによって自分が助かるかどうかが問題なのです。

聖道権仮の方便に 衆生ひさしくとどまりて
諸有に流転の身とぞなる 悲願の一乗帰命せよ(浄土和讃)

親鸞聖人は、聖道仏教、方便の教えに人々が長い間とどまって、生死を繰り返して流転の身となっている、早く阿弥陀仏の本願に救われてくださいと言われています。

聖道仏教の教えを説かれたのも、それでなければ仏法を聞くことができないという相手があってのことです。
現在ただ今救うという、阿弥陀仏の本願一つを説かれたのが、お釈迦様に違いはありません。だからこそ、親鸞聖人も正信偈に「唯説弥陀本願海」といわれ、お釈迦様も「一向専念無量寿仏」と説かれているのです。
かならず、ただ今阿弥陀仏の本願に救われるときがあります。