安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

阿弥陀仏の三願か私の三願か?(maryさんのコメント)

maryさんよりコメントを頂きました。また他、あほうどりさん、くりいむれもんさんからコメントを頂きました。有り難うございました。

善知識方は、18願のみを説き勧められた(願力によって19願20願の心になるから)のか、19願20願も、別で教え勧められたのか(その場合どのように教えられたのか)気になっています。
「19願は18願に入れるための方便だから、諸善をしないといけない」との言い方は、言葉としては合っている(間違いではない)のでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090411/1239408233#c1239461151

19願=私が善をする 20願=私が念仏を称える という願ではありません。
18願、19願、20願の三願は、阿弥陀仏が建てられた三願です。
「設我得仏 十方衆生」は、三願共に共通したお言葉です。
これは、「阿弥陀仏がすべての人と約束をする」という願です。
ですから、「発菩提心 修諸功徳」と19願で誓われたことも
「十方衆生に 菩提心をおこさせる、諸の功徳を修めさせる」という願です。
その阿弥陀仏の三願を、私の三願にしているところに混乱の元があります。

「19願は18願に入れるための方便だから、諸善をしないといけない」との言い方は、言葉としては合っている(間違いではない)のでしょうか。

この言い方には主語がありません。日本語は主語が無くても会話としては成立する言葉なので、便利な一方意味が混同しやすい面があります。上記の言い方に主語を加えると
「阿弥陀仏が建てられた19願は、阿弥陀仏が18願に入れるための方便として、阿弥陀仏が建てられた方便だから、私が諸善をしないといけない」となります。
こう書くと何か違和感を感じられないでしょうか?
主語が異なる文章が、一つの文章として言われていることに気がつかれると思います。

詳しくは、また追ってエントリーをします。
18願のみを説かれたのかということについては

如来所以興出世
唯説弥陀本願海(正信偈)
「如来世に興出したもう所以は 唯弥陀の本願海を説かんがためなり」

お釈迦様が仏教を説かれたのはただ、阿弥陀仏の本願一つを説かんがためなりと、親鸞聖人はいわれています。その阿弥陀仏の本願を「18願のみ」というか、「48願すべて」というか「48願はすべて18願におさまるという意味で、18願」というかという問題になります。

18願だけを強調するのが悪いというのならば、「信心為本」の教えが悪くなるということになります。「信心為本」の強調と、善をすることは矛盾しません。相反すると思う人は、信心為本を誤解していると言うことです。

とりいそぎ書きましたので、またこちらも追ってエントリーを書きます。
昨日はコメント多数頂きながら対応できておらず、申し訳ございませんでした。