安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「阿弥陀仏の救いは無条件ですが」と条件をつける心について(フーテンの虎さんのコメントより)

阿弥陀仏の救いは無条件ですとお聞きしますが、
最近、条件をつけたがる心が知らされます。
(フーテンの虎さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090206/1233878135#c1233891495

どんな条件かといいますと、これだけ阿弥陀仏に心がかかっているのに、とか、毎朝お勤めをしているのに、とか、御法話がある時は欠かさず参詣しているのに、まだ足らないのか、どうすればいいのかという心が出てきます。ともすれば、なにか条件があるのではなかろうか、という心がでてくるのです。
どうすればよろしいでしょうか。よろしくお願いいたします。
(フーテンの虎さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090206/1233878135#c1233923357

条件をつけたがる心というのは、それだけ弥陀の救いに心が向かっていると言うことで、大変ありがたいことだと思います。
「そのうちいつか」と思っている間には、出てこない心だからです。
「ただ今助かる」となってはじめて、「でも、ただ今助かってないが、何か条件があってそれを満たしていないからではないか?」「何かが足りないからではないか?」という心が出てきます。
フーテンの虎さんが自ら言われているように「これだけ毎朝おつとめしている」「御法話に欠かさず参詣している」それなのに、何が足りないのか?という心です。
これは、ある行為が分量的に不足しているのではなく、「何が足りないのか?」と思う心が自力の心であり、それが捨てねばならない心なのです。
足りない部分を埋めるのではありません。今ある自力の心を今捨ててください。
条件があると思う心は、自分は元々救われるものであるが、何かの条件を満たせていないから救われていないのだという心です。
大宇宙の諸仏が捨てたものと、御文章にも書かれているとおりが私の本当の姿なのです。

夫れ、十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人も、空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、捨て果てられたる我等如きの凡夫なり。(御文章2帖目8通・本師本仏)

救われる要素が多少なりあったけれども、諸仏の力では助けることができないから捨てられたのではありません。まったく助かる要素がないのですから、条件をつけようという心がそもそも阿弥陀仏から見たら真っ逆さまの姿なのです。
五逆罪謗法の屍といわれる私たちに、つけられる条件などありません。つけようという思いが、阿弥陀仏の本願に反する心なのです。その心をよく知って頂きたいと思います。