安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

捨てられると思う心も自力です(フーテンの虎さんのコメントより)

フーテンの虎さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
悲しい気持ちさんのコメントに対しては、別のエントリーに書きます。(親鸞学徒は親鸞聖人のお言葉に従います(悲しい気持ちさんのコメントより) - 安心問答(浄土真宗の信心について)

「どうすれば捨てられるのか判りません」とは、「どうにかすれば捨てられる」
「聞いてその通りにすれば捨てられる」という心です。何かしないと不安で仕方がないのです。
かといって、自分では判らないのです。もどかしいのです。何とかしてほしいのです。
よろしくお願いいたします。
(フーテンの虎さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090210/1234227456#c1234270355

聞いてその通りにすれば捨てられるようなものならば、御文章に書かれているように、大宇宙の諸仏は見捨てられませんでした。

夫れ、十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人も、空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、捨て果てられたる我等如きの凡夫なり。(御文章2帖目8通・本師本仏)

諸仏が捨てるというのは、助かる縁手がかりがないからなのです。
「どうにかしたら捨てられる」という心が自力なのですから、それを捨ててください。

ただ気をつけなければならないのは、本当に弥陀に平生救われたいという心なのかどうかです。苦しいと言ってもいろいろあります。感情にだまされている人も多くあります。
感情信仰の恐ろしいところです。

信心決定とは決して、感情の高ぶりでもなく、感情がどん底に突き落とされたものでもありません。一般に言う宗教的熱狂でも、神秘体験とは違います。

フーテンの虎さんにお尋ねします。苦しい気持ちとは、具体的にどのように苦しいのでしょうか。コメントでもメールでも結構です。打ち出してみてください。