安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「後生が苦になるから、今救われたいと思う」という言葉の2つの意味(うーむさんのコメントより)

うーむさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

想像でしかありませんが、
後生が苦になるから、今救われたいと思うのではないでしょうか?
(うーむさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090126/1232927743#c1233072954

これについては、ひろみさんからもコメントを頂いております。そちらも読んでいただきたいと思います。その上で私も回答致します。

仏法を聞き始める人の理由はいろいろあると思います。その中でも無常を観じて仏法を聞き始める方も多いと思います。
浄土真宗を開かれた親鸞聖人も、9才で出家得度をされたのはご両親の死が縁となってのことでした。両親の無常を目の当たりにして、「自分も死んでいかなければならないけれど、死んだらどうなるのだろう。この心をなんとか解決したい」と思われました。

明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬ ものかは

と、有名な歌を詠まれたと言われているのも、明日と言わずに今日救われたいという心からです。
9才で出家されたときも「後生が苦になるから、今救われたい」と思われました。
29才で法然上人のお導きによって、阿弥陀如来の本願を聞き求められたときも「後生が苦になるから、今救われたい」と思われました。

言葉で書くと、同じではないかと思われると思いますが、その心は違います。

ここで、親鸞聖人は9歳の時は比叡山で法華経の修行をされていたという人もあるので、浄土真宗の教えを聞く人を例にとりますと、浄土真宗の教えを聞いている人も、無常を観じあるいは、罪悪を観じ、「後生が苦になるから、今救われたい」と思って、聞法を重ねている人が多いと思います。
そこから、「今救われないのは、後生が苦になっていないからだ」と思っている方も多くあります。そうなると、「後生が苦になろう、なろう」ということが目的になってきます。「後生が苦になる」ことが目的ではなく、「現在ただ今救われる身になる」ことが目的なのです。

「今救われないのは、後生が苦になっていないからだ」ではなく、
「今救われようという心にならないから、後生が苦にもならないのだ」なのです。

聞き始めの頃や、ここ一つという心が起きるまでは、
「後生が苦になるから(不安だから)、今救われたい(後生の不安をなんとかしたい)」
ですが、目的を定めて、ここ一つ聞き抜こうという心が起こされた人は、
「後生が苦になるから(現在ただ今救われなければ、もう救われるときはない。信心決定できずに後生をむかえればそれこそ一大事だから)、今救われたい(現在ただ今聞き抜かねばならない、今救われていないのだから)」
となります。

日本語として、後者はちょっと意味も重なってしまいますが、心が違うというのはこういうことです。
最初に例としてあげた親鸞聖人の心も、9才の時と、法然上人から阿弥陀仏の本願を聞かれるようになってからでは、同様に変わっているのです。

無常観はとても大事です。明日をもしれない命ですから。
しかし、無常観が問い詰まったこと=信心決定ではないのです。短いほんの一瞬の人生だからこそ、目的を見誤ってはならないのです。目的はあくまで信心決定であり、阿弥陀仏も、善知識方もそれ一つを念じておられます。

あわれあわれ、存命の中に皆々信心決定あれかしと、朝夕思いはんべり。まことに宿善まかせとはいいながら、述懐のこころ暫くも止むことなし。(御文章4帖目15通・大阪建立)

信心決定の身にはやく救われて頂きたいと思います。