安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

ただ今の弥陀の救いを、今弥陀より聞かせて頂きましょう(悲しい気持ちさんのコメントより)

悲しい気持ちさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

高森先生の最近の御法話、教学講義、アニメ解説の内容は、これを聴聞していても救われると感じられないのですが、これは私自身の気持ちの問題でしょうか?

昔の御法話のビデオ聴聞ならば、阿弥陀仏に救われるために、頭を下げて聴聞したいとお願いしたい気持ちになりますが、最近特に、私の求道と関係ない内容が増えているように感じてしまいます。
(悲しい気持ちさんのコメントより)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090128/1233100881#c1233153529

御法話の内容については、その人その人聞き方も違うでしょうし、具体的な内容で無い限りはなんともお答えできません。
もし、このエントリーをご覧の方で、悲しい気持ちさんと同様に感じられる方があれば、コメントかメールでご自分で感じられることで教えていただけないでしょうか?

仏法は聴聞に極まると、いわれますが、この安心問答でいつも書きますが、一番大事なことは、聞法心です。蓮如上人は、聞法心のことを宿善といわれています。

いかに昔より当門徒にその名をかけたる人なりとも、無宿善の機は信心を取り難し。(御文章3帖目12通・宿善有無)

いかに長年蓮如上人より教えを聞いている人といっても、無宿善の機(現在ただ今弥陀に救われようという気持ちになって仏法を聞こうという聞法心の無い人)は、信心を取りがたいと言われています。

その宿善(聞法心)のある人が、善知識を求めるのです、ですから五重の義には、このように教えられています。

これによりて五重の義を立てたり。一には宿善、二には善知識、三には光明、四には信心、五には名号、この五重の義成就せずは、往生は叶うべからずと見えたり。(御文章2帖目11通・五重の義)

山口善太郎さんは、このようにも言っています。

自力他力の水際を、委しく教うる人はなし、真の知識にあいたやと、聞かば千里のその外の、海山越えても厭わじと

なんとかここ一つ、自力他力の水際を聞こうという心が起きた人にとっては、そこを詳しく教える知識を探す心が起きます。真の知識にあいたやと、海山越えてもという心です。
だから、こそ五重の義には続けて

されば、善知識というは「阿弥陀仏に帰命せよ」と言える使なり。宿善開発して善知識にあわずば、往生は叶うべからざるなり。(御文章2帖目11通・五重の義)

と言われています。
あくまでも、「弥陀に救われよ」と教えるのが善知識の仕事でありますから、救うのは阿弥陀仏です。
蓮如上人は先ほどの五重の義の最後には、このように言われています。

しかれども、帰するところの弥陀を棄てて、ただ善知識ばかりを本とすべきこと、大なる過なりと、心得べきものなり。(御文章2帖目11通・五重の義)

まず、現在ただ今弥陀に救われようという心になって頂きたいと思います。そうすれば、何を聞くのが仏法を聞くことなのかがわかると思います。目的はあくまでも信心決定して、弥陀の浄土に生まれることです。それもただ今のことなのですから。