安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「助かる自分と思う心」文字にすれば2つあります(カナダ人さんのコメント)

カナダ人さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

私は、長らく「助かる自分だと思う心」を自力の心だと思ってきました。だから、どうしても廃らない「助かる自分だと思う心」をふりすてようとしてきました。
私は、自力の心を取り違えていたのでしょうか?
(カナダ人さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090329/1238280156#c1238333552

結論から言いますと、「助かる自分だと思う心」は自力の心ではありません。
カナダ人さんの書かれている文章が、カナダ人さんの心そのまま文章にしたものとして回答をいたします。

親鸞聖人は自力と言うことについて、このようにいわれています。

身・口・意の乱心を繕い、めでとうしなして浄土へ往生せんと思うを自力と申すなり。(末灯鈔)

体や口や心を乱れてる部分を修繕し、よくして弥陀の浄土へなんとか往生しようと思う心を自力と言うのだといわれています。
別の言葉で言うと、「○○『して』助かろう」と思う心をいいます。この「○○」には、「これだけ朝晩勤行を『して』助かろう」とか「有り難い心が起き『たら』助かるだろう」とか「これだけ泣けた『から』助かるだろう」などと、自分の体の行為、口で言うこと、心で思うこと(三業)を条件として、自分の三業をこうして助かろうと、阿弥陀仏の本願に救われるために、自己の三業を足しにして、それをあてにする心を自力と言います。

蓮如上人は、ふりすてるものについて、以下のように教えておられます。

その信心をとらんずるようは、如何というに、それ、弥陀如来一仏を深くたのみたてまつりて、自余の諸善・万行にこころを懸けず、又諸神・諸菩薩に於て今生の祈りを、のみなせる心を失い、又、わろき、自力なんどいう僻思をもなげ棄てて、弥陀を一心一向に信楽して二心のなき人を、弥陀は必ず遍照の光明をもって、その人を摂取して捨てたまわざるものなり。(御文章2帖目2通・すべて承引)

浄土真宗の真実信心を獲得するというのは、どういうことか。阿弥陀仏一仏あてちからにし、自分のやるいろいろな善をあて力とせず、またいろいろな菩薩や神に現世利益を求める心を捨て、またわるい自力と言う心も投げ捨てて、阿弥陀仏に一心一向となり信心決定して二心(疑情)の無い人を、阿弥陀仏は必ず遍照の光明によって、摂取して捨てられないのだといわれてます。
ここで捨てよと言われているのは、「諸善万行に心を懸けず」といわれているように、諸善をあてにしてそれで助かろうという心であり、それを「自力なんどいう僻思」ともいわれています。

「助かる自分と思う心」と文字にしますと、自分の三業に心がかかった上で助かろうという心とは違います。

三世の諸仏にすてられてたのが私たちの姿だと、前のエントリーにも書きましたが、それでも「助かる自分」となぜ思えるのでしょうか?これは理屈から言えば通らないものです。これを「これだけ○○してきたのだから助かる自分」と言えば自力です。しかし「助かる自分と思う心」があるから求めるのではないかという方もあると思います。

「助かる自分と思う心」と文字にした場合、2つのものがあります。

1つは、阿弥陀仏の願力によって起こされた心、もう1つは、煩悩です。

1つめについては、理屈から言えば助からないはずのものが、それでもなぜ阿弥陀仏の本願を信じて助かる自分と思うのでしょうか?これは阿弥陀仏の本願力によって起こされた心です。

もちろん「十劫の昔に本願が建てられているのだから、助かる自分である」というのは、本願を条件として「本願がある『から』助かる自分」というのも自力です。
「なんでか知らんが助かる自分と思う」のは、阿弥陀仏によって起こされたものです。

2つめの煩悩というのは、欲や怒りや愚痴の心というような具体的なイメージされるものとは違い、「煩悩具足」とか「逆謗の屍」とか「邪見憍慢悪衆生」といわれるものです。「助からない者」といわれても、地獄と聞いても驚かない心です。
特に憍慢と言われる、自分の姿を正しく見ることの出来ないうぬぼれ心は、文字にすると自力の心と混同されやすいものです。
「これだけ○○してきたから、助かる自分」と自惚れるのは自力です。
「助かる自分」と自惚れるのは憍慢です。
煩悩具足も、逆謗の屍も、邪見憍慢悪衆生も、これは救われる前も後も変わらないすがたです。煩悩具足の煩悩が減るわけでも、逆謗の屍が動き出すわけでも、邪見憍慢の者が、邪見憍慢でなくなるのでもありません。

捨てねばならないのは「自力なんどいう僻思」であって、「願力によって起こされた心」でも「煩悩」でもありません。

ただ今弥陀に救われるのは、「自力なんどいう僻思をもなげ棄てて」です。「煩悩を投げ捨てて」ではありません。阿弥陀仏の願力は常にはたらいています。ただ今救うのが阿弥陀仏の本願です。