安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

苦しみを逃れること=浄土に生まれることではありません(maryさんのコメントより)

maryさんよりコメントをいただきました。有り難うございました。

信心決定したいと、自分なりにいつも思っていますが、それは現在の生きるための苦しみから楽になりたいのと、死への恐怖心からです。自因自果とはいえ、色々な世間のしがらみや責任が雑縁乱動し(因果の道理を聞いて投げ出すこともできず)苦しいです。
浄土を夢見て現実の苦しみをごまかしているのでしょうか?何かまちがっているでしょうか?場違いな質問ですみません。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090119/1232362556#c1232368080

場違いな質問ではありません。非常に真面目な質問だと思います。
仏法を聞く目的は、この世で弥陀の救いにあい、大慶喜の身になり、弥陀の浄土に生まれることです。

ですから、いわゆるこの世の幸福といわれる、円満な人間関係、恵まれた家庭環境、経済的に恵まれること、社会的地位、あるいは自己肯定などとは違うものです。

ただ信心と言っても、最初からわかるわけではないので、仏法に入るきっかけとして、「この世の苦しみから楽になりたい」ということは別に場違いなことではありません。
真実信心を求めるというのは、そういうこの世の苦しみから逃れるというところから、入っていく人も多いからです。また、そういうところからでないと、真実信心を求めると言うことはありません。

しかし、真実信心を求めることは、もっと自分の心に深くたずねていかねばなりません。この世の人間関係や、世間のしがらみのことも大変つらいことだと思いますが、その時に「つらい」と感じる心は、煩悩が動いているのです。
事実、観無量寿経に説かれている韋提希夫人も、この世の苦しみが縁となってお釈迦様から仏法を聞くようになりました。
我が子によって七重の牢屋に閉じ込められた韋提希夫人に対して、お釈迦様は、この世の苦しみを何とかするとはいわれていません。「弥陀の浄土に生まれたい」という心が起きるように韋提希夫人を導いておられます。

然ればすなわち、浄邦縁熟して、調達闍世をして逆害を興ぜしめ、浄業機彰れて、釈迦韋提をして安養を選ばしめたまえり。(教行信証・総序)

お釈迦様は韋提希夫人に、安養(弥陀の浄土)に生まれたいという心が起きるようにされました。そのときの韋提希夫人の心は、どうだったでしょうか。
「この世の苦しみ逃れたい」という心から「弥陀の浄土へ生まれたい」と心が大転換したのです。これは一見すると、「この世の苦しみを逃れるための方法として弥陀の浄土に生まれたいと思ったのではないか」と思われるかもしれませんが、全く違うのです。

確かに「現在から未来に弥陀の浄土に生まれる身」になれば、結果としてこの世の苦しみから逃れられるように思いますが、信心決定したからといって、この世の苦しみやしがらみが全く無くなってしまうのではありません。因果の道理に狂いはなく、まいた種は必ず生えます。ただ、往生浄土の碍りには成らないというだけです。

この世の苦しみから逃れるという心から、早く、現在ただ今信心決定し、弥陀の浄土に生まれられる身になりたいという心に成っていただきたいとおもいます。そして、現在ただ今弥陀の浄土に救われる身になってください。