安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「信心決定できない理由」は条件をつける心(姥さんのコメントより)

姥さんからコメントを頂きました。有り難うございました。

(中略)
口の美味しい時尋ねよ後生知る善き人にこれも宿縁でしょうか?隣の人に聞けず,知人に聞けば笑われる、寺にも行けず、唯々迷心の後生、天,人は先ず無理、畜生,餓鬼、修羅、地獄どれも否だ、姥には疑問,不審時間が無い。唯,称名,称えても自力で無理やし。仏法は若き時嗜め、年行けば身もままならず、耳遠く眠たくもなり、吉崎参りの蓮如様の声が聞こえます。、
(姥さんのコメントより)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090210/1234227456#c1234314164

仏法を聞いている人には、いろいろな年齢の方もあります。弥陀の救いに年齢は関係ありません。関係ないというのは、年を取ったから早く救われる、若いからまだ救われないということはないという意味です。
これは阿弥陀仏の側から見た場合の言い方です。

姥さんがコメントに書かれているように、蓮如上人は若きとき仏法は聞けと言われています。

「若きとき仏法は嗜め」と候。「年よれば行歩も叶わず睡くもあるなり、ただ若きとき嗜め」と候。(御一代記聞書)

確かに年を取れば、歩くことも不自由し、眠たくもありますが、聞法する側からいいますと、「獲信できない理由が多くなる」から若いとき聞けと言われているのです。

弥陀の救いは、現在ただ今ですと聞いていても、本願に対して直接いわなくても、自分の側のいいわけをいろいろ出して、弥陀の本願を否定するのが私たちの本当の姿なのです。

「もう年だから」
「聞いても忘れるから」
「話を聞いているときに眠くなるから」
「足腰も弱って、遠くまで聞きに行けないから」
だから、今生では聞けないだろうと理由をつけます。

反対に
「若く」
「聞いたことも覚えており」
「話を聞いても眠くならず」
「足腰も丈夫でどこへでも聞きに行ける」
なら、信心決定できるのでしょうか。

そうではありません。「○○だから」信心決定できるというのは、間違いです。
「○○だからできない」というのも間違いです。
すべては阿弥陀仏のお力によるのですから、「○○だから」という条件はありません。
年齢はもちろん、罪悪も、場所もそれを理由にしたら、それが条件になってしまいます。

弥陀の本願には老少・善悪の人をえらばず、ただ信心を要とすと知るべし。その故は、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします(歎異抄1章)

阿弥陀仏の本願には、老人も若い人も、善人も悪人も差別はありません。ただ真実信心を獲得すること一つが肝要なのです。それは、罪が深く、煩悩が燃えさかっているすべての人を助けるために建てられた本願だからですと、親鸞聖人は言われています。

無理と思うのは、自分で用意した信心決定できない理由です。
弥陀の本願は、現在ただ今救うという本願です。姥さんも必ず弥陀に救われるときがあります。