安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

仏法は喜ぶために聞くのではありません(orimaさんのコメントより)

orimaさんへ
質問に回答いただき有り難うございました。
遅くなりすみませんでした。
全文はこちら(http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20081119/1227106377#c1227317972


お兼さんコメント有り難うございました。
カペタさん、コメント有り難うございました。質問については、明日には回答いたしますので今暫くお待ち下さい。途中で止まっており申し訳ございません。

正直、今信心決定しよう、できるんだぞと自分に言い聞かせているという感じのようにも思います。
(略)
自分は普段、欲ばかりで、仏法のことが心になく、そんなのではだめだなあと思いながらも、毎日ずるずると過ごしているように思います。

ただここまで書いて、その心が続いて、どうにかなって、信心決定できると思っているのなら、間違いだなあと思いましたが、いかがでしょうか。

「自分に言い聞かせている」心が「どうにかなって信心決定できる」のではありません。
それは自力の延長にすぎません。加えて言うと、「自分に言い聞かせている心がどうにかなる」ほど意志の強い人なら、よほどの人です。
そんな人でなければ救えない弥陀の本願なら、すべての人を相手に願を立てられる道理がありません。
仏法に心がないというのは、ある意味自分の姿を見つめておられるから言える言葉だと思います。
少し分解しますと、「欲ばかりの自分」と「それではだめだと思う自分」がなければ、言えないことですね。心を見つめるというのは、具体的にいうと、そういった視点の移動なのです。そこでさらに、「それではだめだと思う自分」を「なぜダメだと思うのかという自分」の視点で見ていかねばなりません。
これはあくまで、一つの心の向け方であってこれをしたから救われるということではありませんので、念のために言っておきます。

質問2の「もっと喜べていいのではないかという不安」は、自分の聞き誤りなのかも知れませんが、よく上の方から、仏法知らされた者は当然喜びがある、お伝えしましょう、ということをお聞きします。
どうしても周りを見てしまい、喜んでそうなのを見ていると、自分の心はどうしてそうなんだろうと思います。
仏法の教えが自分にとっていかに大事なものか頭だけでも分かったら、もう少し冷めてないんじゃないだろうかとどうしても思ってしまいます。
大分前は、一生懸命にお伝えしていけば、やがて仏法の重さが知らされるというように思っていました。
「もっと喜べていいのではないかという不安」は、自分は仏法が分かっていない、分かりたい、自分には分からないのか、とかそのようなことからかなと思います。

聞法していても、お勤めしていても、何となく味がないというか、うまく言えませんがそのような感じです。弥陀の本願に真剣に向かっていないからかなと思います。真剣に聞けば、聞ききれなかったことに悔しさとかあるように思うのです。

前回のエントリーでも書きましたが、言葉が同じで意味が違うと言うことです。
「喜びがある」というのは、信前信後もありますが、意味合いは全く異なります。
蓮如上人の御文章から引用しますと、そのことについて言われています。

 古歌にいわく、『うれしさを昔はそでにつつみけり、こよいは身にも余りぬるかな』。『嬉しさを昔は袖に包む』といえる意は、昔は雑行・正行の分別もなく、『念仏だにも申せば往生する』とばかり思いつるこころなり。
 『今宵は身にも余る』といえるは、正雑の分別を聞きわけ、一向一心になりて信心決定の上に、仏恩報尽の為に念仏申すこころは、おおきに各別なり。(御文章1帖目1通)

信前信後を対比して、信前は「袖に包む喜び」、信後は「身にも余る」といわれ、その違いを言われています。
ここで大事なのは、喜びの内容なのです。「袖に包む喜び」と「身にも余る」と言われた喜びは、喜んでいるものがらが全く異なります。
信前について「念仏だにも申せば往生する」とばかり思うことを喜んでいます。
信後は「一向一心になりて、信心決定の上に、仏恩報尽の為に念仏申す」心のことをいわれています。

○○すれば助かるだろうと思って喜んでいるのと、弥陀に救われたことを喜んでいるのでは、全く違います。
加えて言いますと、「○○すれば」というのが、そもそも「雑行・正行の分別もなく」言っていることなので、的はずれなのです。

信前の仏法聞いての喜びというのは、言葉を変えて言いますと、「わたしが助かると思う」ところから起きるのです。どんな素晴らしい法を聞いても、それが自分と無関係なら、私が喜ぶ心は起きてきません

弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなり(歎異抄)

と親鸞聖人が言われているのも、自分一人を救わんが為の本願であったと、救われて知らされたところから言われているのです。

「仏法知らされた喜び」とは、「自分も信心決定できるかも」と思う喜びです。聞き始めは、それで進んでいけると思いますが、それも感情ですから、早い人で1年もすればその感情は続きません。4年から7年くらいの中には、初期の感情は全くなくなってしまうでしょう。
そこで「喜べるはず」と、感情を引き起こそうとしても、自分自身の信仰が深まっていなければ、枯れた井戸から水を出そうというようなもので、出ないものはでません。
出ないものをあるかのように絞り出せば、出ない自分がおかしいのでは無いかと、自己矛盾に苦しむことになるでしょう。しかし、そういう悩みはいつのまにか、他人に「喜んでいるよき仏法者とみられる」ことが目的になってしまっているのです。
反対に、弥陀に救われた後の喜びは「憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもいあり」と親鸞聖人が言われるとおりで、無理に出そうとしなくても、地下水脈のように縁に触れ、折に触れ、恩徳讃の心はでてくるものなのです。

そこで大事になってくるのは教えなのです。

大分前は、一生懸命にお伝えしていけば、やがて仏法の重さが知らされるというように思っていました。

もちろん、人に仏法をお伝えすれば、より知らされてくるのですが、前提は、自らが真剣に信心決定しようと求めているということがあっての上です。
信心決定ということを曖昧にして、人に仏法を伝えようとしても、一体何を伝えているのでしょうか。
「わからんけど、こうやっていればわかってくる」というのなら、教えは不要になってしまいます。
教え(弥陀の本願)が、本です。その上での「人に伝える」なのです。
冷めた心が見えて来るというのは、自分の心を見つめているからいえることなのです。
「そんなはずはない、喜んで当然だ」と、自分の心を見つめない人は、「喜ぶこと」が目的になっているのです。


私たちが弥陀の本願を聞かせていただく目的は、「喜ぶため」ではありません。そんな人が言う喜びは「袖に包む喜び」です。信心決定(身にも余りぬる喜び)するために仏法を聞いているのです。

とはいえ、喜びがないというは、同じ安楽椅子に長く座ってしまっているということの現れです。

聞法していても、お勤めしていても、何となく味がないというか、うまく言えませんがそのような感じです。

こういう心になっていきます。
過去の喜び(感情)をアルバムのように眺めていても、現在の喜びにはなりません。「喜べるはず」というのは、既に「喜んでいた過去」に視点が行っているので、現在の問題解決には何の役にも立ちません。
弥陀の救いを求める人が、問題にしなければならないのは、過去ではありません。現在です。「現在ただ今信心決定する」という教えなのですから。
安楽椅子が壊されれば、「信心決定しよう」という心も出てきます。

今までこうして述べることをしなかったのは、自分が分かっていないということを知られるのが、なにか怖かったのだと思います。

そんなことをいつまでも言っていられないので、思うことを打ち出していきたいと思います。

このような心になられたと言うことは、以前の椅子から一歩踏み出されたと言うことです。orimaさんの仏縁を、喜ばずにはおれません。

コメントを頂いて、さらに質問ですが
問い
「自分が分かっていないことを知られるのが、なにか怖かった」のは、なぜでしょうか?
「他人に知られるのが怖かった」ように書かれていますが、「誰に」知られるのが怖かったと言うことででしょうか?
知られたらどうなると思ってのことでしょうか?
宜しくお願いします。