orimaさんへ
コメントありがとうございました。(全文はこちら)
返事が遅くなり申し訳ございませんでした。
でも、そう聞いても、やっぱり、それが分からず、今救われようと思い込もうとしてしまう感じです。
それよりも、疲れていたら休みたい。家族のことがなかったらもっと聞けるのに。何か答えが欲しい。とか色々な感情が出てきて、何が自分の本当に思っていることなのか、自分でもよく分からない気分です。
orimaさんは、自分の心を見つめようとがんばっておられることと思います。
いわれるように「自分の心を見つめる」ということと「思い込む」ということは、異なります。
形からすると、どちらも自分の心に意識を向けているのですから、間違えやすいところです。
「真剣になろうとがんばる」ことと「真剣にならねばならないと思い込む」ことが、異なるのと同じです。
いろいろと思われることが浮かんでくると思いますが、大事なことは目的からぶれないということです。
仏法を聞いておられるのは、信心決定が目的であり、弥陀の救いにただ今あうことが目的だと思っていると思います。そこで大事なのは、「いつか信心決定しよう」ではなく、「ただ今信心決定しよう」ということなのです。
「いつか」という日は、永遠に来ない日なのです。
振り返って、「昨日は信心決定できなかった」ということはいえますが、未来に向かって「いつか信心決定できる」という言葉は、阿弥陀仏の本願からいってないことなのです。
「いつか」という言葉の裏にあるのは「今日ではない」ということです。「ただ今ではない」ということを言い換えているに過ぎません。
「今日ではない」なら、明日になっても「いつか(今日ではない)」です。
その次の日も「いつか(今日ではない)」となると、1年後、10年後に聞いても、「いつか(今日ではない)」と答えるでしょう。
結果として、弥陀に救われたということが、今日ではない日にあったとしても、救われた日は「今日」であり「ただ今」なのです。「いつか」ではありません。
言われているとおり、何か型にとらわれて、そうなろうそうなろうとしているのかなと思いました。
自分の中に答えがあるとはどのようなことだろう?と思いました。法に向かっていくということでしょうか。
自分の中の答えということについて回答いたします。
聞法というのは、「弥陀の本願を聞く」ということです。
「自分の中の答え」というのは、「弥陀の本願になぜ救われないのか」という答えは、自分自身がもっている、抱えているものだという意味なのです。
秘密の法門とか、他の宗教の教祖のようなものが言うのは、この逆です。
「その教えを聞いている人が、救われないのは、教祖のもっている教え(秘密の法門)を教えてもらってないからだ」という考えです。
言葉を変えると、「救われない答えは、自分以外のものが鍵を握っている」ということです。
もし、答えを誰か別の人が持っているとすれば、その答え(型)にはまらないと助かりません。だからこそ、秘事法門は、儀式で信心決定するというのです。
儀式という型に、はまった行いをすれば救われるというのですから、真実信心とはまったく異なります。
「こういう型にはまっていけば、いつかは救われる」というのも同じ発想です。
そうではなく「ただ今救うという弥陀の本願に、ただ今救われないのはなぜか」という答えは、阿弥陀仏の慈悲は差別がないので、救いの前後があるようにみえるのは、救われる側に原因があるのです。
もちろんこれは、「罪悪が深い」からでも「聞法歴が短い」からでもありません。
他力の信心を獲ていないからなのです。
更に余の方へ心をふらず、一心一向に、「仏助けたまえ」と申さん衆生をば、たとい罪業は深重なりとも、必ず弥陀如来は救いましますべし。(御文章5帖目1通・末代無智)
一心一向に阿弥陀如来をたのむ者は、たとえどれだけ罪や悪が深くて重くても、必ず阿弥陀如来はただ今救って下さいます。
一心一向にならないからです。
一心一向になるには、雑行を捨てよといわれています。
もろもろの雑行・雑善をなげ棄てて、一心一向に弥陀如来をたのみまいらせて、二心なく信じたてまつれば、そのたのむ衆生を、光明を放ちて、その光の中に摂め入れ置きたまうなり。これを即ち、弥陀如来の摂取の光益にあずかるとは申すなり、または不捨の誓約ともこれを名くるなり。(御文章3帖目4通・大聖世尊)
もろもろの雑行を投げ捨てよといわれています。
雑行を投げ捨てると、一心一向に弥陀如来をたのむ身になります。そのたのむ衆生を、摂取の光明にあずかったともいうのです。
文字で表せば、御文章にはいたるところに、このように「雑行を捨てよ」と蓮如上人は書かれています。
その自分が抱えている雑行を知りるのが、答えを知るということです。
答えがわかれば、それを捨てるだけです。
弥陀の救いは現在ただ今の一念です。決して、いつか先という未来のことではありません。
必ず弥陀の救いにあうことができます。