安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

邪見憍慢の者が本願を信ずるということについて(メールでの質問)

メールで頂いた質問です。

信じよう信じようとしても信じられません。当たり前のことです。もともと信ずる心などないところから出てくる心ですから。
なぜこんな自力の心が出てくるのでしょうか。邪見・憍慢だからでしょうか。自分で何とかすれば助かると己惚れているからでしょうか。(メールで頂いた質問)

邪見憍慢という言葉が出てきたので、回答いたします。

邪見憍慢悪衆生
信楽受持甚以難
難中之難無過斯(正信偈)
(邪見憍慢の悪衆生 信楽受持すること甚だ以て難し 難中の難斯に過ぎるは無し)

私たちのことを、邪見憍慢の悪衆生と言われています。
邪見は、正しく見ることが出来ない。阿弥陀仏の本願を正しく見ることが出来ないもの。憍慢は、自惚れ心のことで、自分の姿を正しく見ることが出来ないものということです。

邪見憍慢悪衆生が、阿弥陀仏の本願に向かったときにでてくるのが、自力の心であって、邪見憍慢=自力の心ではありません。
自惚れているのが悪いのなら、邪見憍慢な者は助からないことになります。結果として、阿弥陀仏の本願に救われるといっても、邪見憍慢な者が、邪見憍慢でなくなるのではありません。

だから、「もろもろの雑行雑修自力の心をふりすてて」とは言われていますが、「自惚れ心(邪見憍慢)を振り捨てて」と言われてはいません。

「信ずる心」について

メールの中に、「信ずる心などない」とありますが、これは実感とは違うと思います。「真実信心はない」のが本当で、「阿弥陀仏を信じて」仏法を聞き求めて、こういう質問もされているのだと思います。
これは「信ずる心がない」という言葉だけが先行して、自分の心を見つめる前に、結論を先に出しているからおきる疑問だと思います。
はじめから「信じる心の無いもの」と決めつけて、自分の心を見つめれば、欲ばかりで信じる心がないと思われるとおもいます。欲ばかりの者が、阿弥陀仏を信じようと思う心は、阿弥陀仏の願力によって起こされた尊い聞法心であって、それを否定しようとする心が恐ろしい謗法罪なのです。
せっかく願力で起こされた尊い聞法心を、自力と決めつけ捨てようとするのは、大変もったいないことです。捨てようとするものがらが違っているから堂々巡りになるのは当然です。
聞法心がなければ、何も始まりませんが、聞法心がおこされて阿弥陀仏を信じようとする心を全部自力と思うのは間違いです。

ただ今阿弥陀仏に救われることがあります。「ただ今救われよう」という心がぶれて、「どうやったら」にばかり視点が行けば本末転倒になってしまいます。