安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

あせる気持ちは感情(フーテンの虎さんのコメントより)

フーテンの虎さんから、コメントをいただきました。
(全文はこちら)http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20081204/1228383380#c1228626764

コメント有難うございました。

最近、このままで信心決定できろのかなと思うようになりました。今死んだら地獄だとあせるのですが、のほほんとしている心が知らされます。どうすればいいのか。自力の心もわからず、このまま最期まで知らされなかったらと思うと不安です。

今死んだら地獄とあせる気持ちは、尊いことと思います。
しかし、仏法を聞く目的は、信心決定です。弥陀の浄土に往生することです。

同じことのように思いますが、「地獄に堕ちたくない」と思って仏法を聞くのと、「ただ今信心決定したい」と思って仏法を聞くのでは違います。

「今地獄だとあせる」のは、感情です。
「のほほんとしている心」も感情です。

感情で、感情をどうにかしようと思えば、どうすればいいのかわからなくなるのも当然です。
「のほほんとしている心」が「あせる」ようになったのが、信心ではありません。

向かうべきは、自分の感情ではなく、真実信心であり、阿弥陀仏の本願なのです。

また、「自力の心もわからず、このまま最期までしらされなかったらと思うと不安」と書かれていますが、「自力の心がわかる」ために仏法を聞いているのではありません。

あくまで「信心決定」が、仏法を聞く目的なのです。

フーテンの虎さんは、自分の心を見つめようとされています。それは、本当に尊いことだと思います。あとは、自分の心のどこに目を向けるかということなのです。

それには、自分の心を、言葉(文字)にするということがとても大事です。信心の沙汰が大事だといわれるのは、そのためなのです。

一。もとより我が安心の趣いまだ決定せしむる分もなきあいだ、その不審をいたすべき所に、心中を包みて有の儘に語らざる類あるべし。これを責め相尋ぬる所に、有の儘に心中を語らずして、当場を言い抜けんとする人のみなり。勿体なき次第なり。心中を遺さず語りて、真実信心に基くべきものなり。(御文章4帖目8通 八箇条)

いまだ信心決定していない人が、その不審を人に出していかねばならないのに、心の中を隠して有りの儘に言わない人たちがいる。そこを別の人が尋ねても、思ったことを有りの儘に言わずに、その場をいいぬけようとする人ばかりで、勿体無いことである。心中を残さず言葉にして語って、真実信心を獲る身に早くなりなさいといわれています。

フーテンの虎さんは、不審を言葉にされています、とてもいいことだと思います。

一番よくないのは、「わかったつもり」で、人に尋ねない。心中を語らないことなのです。
教義的な質問は、ある程度頭のいい人ならわかることも多いでしょう。
蓮如上人が、「不審」といわれるのは
「このままでいいのだろうか」
「どうして信心決定できないのか」
「本当に信心決定できるのだろうか」
「信心決定ということは、私には難しいのではないか」
などなど、信心決定ということを、目的としたうえでの、いろいろ出てくる、不安や疑問をいうのです。

そこで、フーテンの虎さんにお尋ねします。

私はこの頃仏法を聞けば聞くほど、だんだんと遠くなっていく気がしてなりません(信心決定に)。

とコメントされていましたが、

「だんだんと遠くなっていく気がしてならない」のは、なぜでしょうか?
以前より遠く感じるのには、何か理由があると思います。

以前は、もっと早く信心決定できる、または近づいていると思っていたのに、なぜ今は、だんだんと遠くなっていくように感じるのでしょうか?

コメントでもメールでも結構なので、お答えください。
よろしくお願いいたします。