安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「私が本願を知って、本願に誓われてある通りになろうともしないで、本願の通りになる、ことなどあるのでしょうか?」(りきいしさんのコメントからの問答)

りきいし 2012/10/06 02:33
私が本願を知って、本願に誓われてある通りになろうともしないで、本願の通りになる、ことなどあるのでしょうか?


yamamoya 2012/10/06 04:53
りきいしさん

本願を知らずに本願通りになるということはありません。しかし、本願を聞いてみると、「自分が求めねばならないと思っていた本願」とは違うので、「(自分が思っていた)誓われている通りになろうと思った本願」通りになっていません。
「本願に誓われてある通りになろう」という気持ちは大事なことです。しかし、なろうと思ったからなれたというのは、間違いになります。


りきいし 2012/10/06 06:39
「本願に誓われてある通りになろう」という気持ちは大事なことです。

とおっしゃるのは、どういう意味でおっしゃるのか。何故大事なのか。思い通りになるのではないのに、思いは大事とおっしゃる意味がわかりません。


はてな 2012/10/06 09:23
その思いは,阿弥陀仏によって起こされた心だから大事なのだと思います。
「阿弥陀仏が私に本願を知らせ,本願に誓われてある通りにならせようし,本願の通りになる」
という言い方の方が合いませんか。


りきいし 2012/10/06 09:59
そうならば、なろうと思ったからなれるのではないにしても、本願通りになろうと思うことは、本願のねらいの一つと言えるのではないでしょうか?


はてな 2012/10/06 13:01
ねらいの一つというよりも,過去世からの不思議な因縁と仰がずにおれないというのが私の味わいです。


たかぼー 2012/10/06 16:05
諸善万行の雑行を行するをもって仏道を求めるよりは、弥陀名号を専念して行することの方がはるかに仏心に近づいたと言えますでしょう。しかし、自力疑心の罪深く、弥陀の18願海に転入することは永久に不可であります。念仏の行を行うことをもってよしとせず、自力疑心を弥陀の願心を聞くによって消尽させて頂きましょう。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20121005/1349428196#c

りきいしさん

分かりにくい文章になりすみませんでした。
>「本願に誓われてある通りになろう」という気持ちは大事なことです。
について、コメントします。

上記のような心が起こらない人は、法を聞く気がない人であり、念仏を称えようという心も起きません、浄土往生を願う気持ちも起きない人です。言葉を変えると法に向き合う心のない人に、自力だとか計らいという話は問題にもならないことになってしまいます。

そういう意味で「法を聞く気持ち」は大事です。しかし、その「法を聞こうという気持ち」を強めていけば救われるという法ではありません。

「法を聞こうという心」は、阿弥陀仏に向かったときに、「私から阿弥陀仏の法を取りに行く」心になるので、私の求めるより先立って建てられた本願に合わなくなります。いわゆる先手の法に対して、こちらから先に手を出せばそれを自力の計らいと言われます。なぜなら、すでに本願が成就して現在働いておられる阿弥陀仏の本願があることにもかかわらず、「こちらから信心を受け取りに行こう」という心は本願に自分の力を加えてなんとかしようという心です。

簡単に図示するとこのようになります。

本願力がどこか途中で止まっており、自分と本願力の隙間を「自分の努力」「自分の聞法心」「自力の念仏」を加えて埋めようとする考えは間違いです。

「本願力はすでにただ今この私に届けられている」ことを認めない計らいが問題なのです。
自分のなにかを加えなければならないという計らいは、すでに私に先行して届けられている本願を疑っていることになります。

本願力は、南無阿弥陀仏となって私にすでに呼びかけられています。現在、本願に救われようと思われているりきいしさんにとっては、「聞く気になるかどうか」ではなくて、「本願をただ今聞くかきかないか」という問題です。

縁あって、阿弥陀仏の本願を聞かせていただくご縁があったのですから、あとはりきいしさんがただ今救う本願力を疑い無く聞くだけです。