安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

信心決定が仏法を聞く目的(迷う旅人さんのコメントより)

迷う旅人さんへ

コメントを頂き有り難うございました。
全文はこちら(http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20081114/1226653829#c1226773667

結論から言いますと、ただ今の救いに心をかけるということです。

お尋ねの部分について回答いたします。

私にとっての苦悩のない世界とは、こんな私でも生きていてよかったと思える、ひたすら孤独で虚しくて暗い心がない世界で、イダイケ夫人がダイバダッタやアジャセに頭を下げて感謝できる、そんな素晴らしい信心が頂けた世界なんだ、とイメージしていました。いずれにせよ、後生の一大事が出発点ではなかったし(そもそも、後生の一大事が問題になる、ということがどういうことか分かっていないので)、そこから前に進もうとしていたつもりで、進んでいなかったんだ。。。

これに関してですが、感謝と法悦は、信心決定した世界には必ずあるものです。しかし、それは信心決定という結果に付随してくるものであって、目的はあくまでも真実信心を獲得すること以外にはありません。
真実信心は、「孤独」や「苦悩」が「なくなった」世界ではありません。現在感じる苦しみが無くなったのなら、それは相対の世界です。弥陀の救いは、そういったものではありません。

蓮如上人は、このように教えておられます。

聴聞心に入れもうさんと思う人はあり、信をとらんずると思う人なし。されば極楽はたのしむと聞きて、まいらんと願いのぞむ人は仏に成らず、弥陀をたのむ人は仏に成ると仰せられ候ふ。(御一代記聞書 122)

真剣に聞こうとする者はいるが、ただ今信心決定しようと思う人がない。極楽は楽しいところだと聞いて、そこへ行って楽しもうと思う人は極楽にいって仏に成ることはない、弥陀をたのむ(ただ今信心決定した人)は、死ねば極楽へ行って仏に成るのだと言われています。

迷う旅人さんでいえば、この「極楽はたのしむ」というのが、「こんな私でも生きていてよかったと思える、ひたすら孤独で虚しくて暗い心がない世界」にあたると思います。
もちろん仏法を聞く最初のご縁にそう言うことはあるでしょう。しかし、真実信心決定した世界にでるのが目的であり、「なにか素晴らしい世界」にでるのが目的ではありません。

米とワラの例え話がありますが、稲を栽培すれば、米とワラがとれますが、米が真実信心とすれば、ワラにあたるのが、「孤独で虚しくて暗い心がない世界」なのです。
目的はあくまで、米であって、ワラではありません。

では、どうしたら、目的違いを正せばよいのか。
(略)
「真実信心」を目的にしているつもりで、していなかったといことがよくわかりました。といっても、どうすればそれが目的になるのか分かりません。今日こそは阿弥陀仏から信心をいただこうと思って、聴聞するのは間違いなのか?どう聴聞すればよいのか?そこがどうも分かりません。

「今日こそは阿弥陀仏から信心を頂いて」と思うことは、間違いではありません。
では、「今日こそ」の「今日」というのは、「今日」のいつでしょうか?
ご法話の最中でしょうか、ご法話が終わる頃でしょうか?
それともご法話が終わって恩徳讃を歌っているときでしょうか?
恩徳讃が終わって、法友たちと沙汰をしているときでしょうか?

「今日こそは」とご法話会場に足を運ぶときは、その「今日」には入らないのでしょうか?
「今日」といっても、「現在のこと」であり、「ただ今」のことです。迷う旅人さんが、このブログを読まれている、その「今」なのです。
弥陀の願力には、限りがありません。「いま」でも信心決定するということがあるのです。

これは阿弥陀仏の本願ですから、「現在ただ今信心決定の身に救う」という本願を聞いているのですから、本願通りに救われたというときは「現在ただ今信心決定の身に救われた」ということです。

現在ただ今真実信心を獲得しようと思ったうえで、「どう聴聞するのか?」という問題が出てくるのです。
真剣に聞くという言葉はあっても「何を聞く」のかが分からなかったら、目的が分からねば、「どう聞くか」もありません。
「とにかく真剣に聞いたらいいんだ」という意見もありますが、闇夜に鉄砲ではありませんが、目的が定まっていなければやはり空回りになるでしょう。
「愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて、本願に帰す」(教行信証)
に言われているように、現在の救いを邪魔する雑行がどうやったら廃るかが、聞かねばならないところなのです。その前提としては、雑行が問題になっていなければなりません。

とにかくこの安楽椅子を卒業しなくては。とかく頭が先行して動いているのだと思います。ご説法で聞いたままを鏡に自分を見つめるよう努めます。

とかく言葉というのは不完全なものです。
「どう聞いたら」「どう思ったら」が自力の心ですといわれると、これは因果関係から言いますと
「自力の心が問題になる」(因)ということがあって、それには「どう聞いたら」(結果)という心がでてくるのです。
「どう聞いたら」という心が起きた(原因)ら、「自力の心が問題になる」(結果)のではないのです。
方向が逆です。
しかし、「どう聞いたら」が自力の心だと聞くと、なんでもかんでもそういう心を、自力の心だと思ってしまいます。実際はそれが自力の心ではないのですが、「こういうものが自力の心だ」という思いこみがありますので、そこに陥り、「あとはこれを捨てるだけだ」と頑張ります。

しかし、たんに「どう聞いたら」と目的がはっきりしないままもがいているのは、感情です。そんな感情はどれだけ頑張っても晴れるものではありません。阿弥陀仏が、晴らしてみせる、破ってみせるという自力の心とは違うからです。

今までの求道は何だったのか、無駄に人生を過ごしてしまったんだ、と泣きたくなります。でも、それでも、間違いを正さなくては、何のために生まれて来たのか、全く無意味になってしまうので、今回の問答をきっかけに、ゼロリセットして、阿弥陀仏の救いを求めたいと思います。

前回も書きましたが、間違うのが悪いのではありません。こと仏法においては間違いに気づかないことが悪いのであり、間違ったことを改めないことの方が悪いのです。
人は常に迷うものです。

親鸞聖人は教行信証の冒頭に言われています。

穢を捨て浄を欣い、行に迷い信に惑い、心昏く識寡く、悪重く障多きもの、ことに如来(釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もっぱらこの行に奉え、ただこの信を崇めよ。(教行信証総序)

常に行に迷い、信に惑い、流転を重ねてきたのではないですか。
悪もさわりも多いのが人間です。だからこそ、親鸞聖人は「ただこの信を崇めよ」と方向を示し、信心決定を急げと言われています。

自分の中のものをどんどん出して行かないといけないな、と今回つくづく思いました。まだ整理ついていないことが多いので、もう少し時間をおいて書かせて頂ければ幸いです。

どんどん出してください。
急がせるつもりはありませんが、コメントを頂いたのでエントリーを書きました。