元自称福徳会員さんへ
コメント遅くなりすみませんでした。
お尋ねの件について回答いたします。
(http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080811/1218449277#c)
1.18願の救いを求めている真宗門徒に対し、18願に救われるために善の勧めはあるのかないのか?あるのであれば聖人のお言葉をお示しください。
以前もお答えしましたが、「救われるために」する善はありません、よって勧めもありません。
間に合うような善はありませんから、
「いづれの行も及び難き身」と歎異抄に書かれているのです。
2.最近の清森問答での清森さんの証言にあるように(そうでなくてもある程度のレベルの会員さんは当然ご存知のことです)、親鸞会の講師は破邪顕正・財施の厳しい目標が与えられ、それが、一般会員にも降りてきます。目標を決めるのは当然会のトップである高森先生です(少なくとも私はよく「会長先生から与えられた目標」と言う言葉をよく聞きました。)。したがって、厳しい目標を課しているのは構成員ではなく、教団のトップです。さて、このような厳しい目標を課す目的はどのような教義からなのでしょうか?また、それが高森教の教義ではないと言うのであればそれを正当化する親鸞聖人のお言葉をお示しください。
教義と、経営は別物です。
別の言葉で言えば、「真実信心」と「教団の運営方針」は、必ず一致するものではありません。
組織を作られなかった親鸞聖人、組織を作られた蓮如上人
巨大な道場は建てられなかった親鸞聖人、巨大な道場を建てられた蓮如上人
権力者を徹底的に嫌われた親鸞聖人、四女を足利義政に差し出しその妾にした蓮如上人
浄土真宗の人ならば、誰もが善知識と仰ぐ親鸞聖人と蓮如上人は、その布教方法や性格は、大変異なっていました。
では、このお二方の信心は違っていたのかというと、同じです。
阿弥陀如来から賜る信心ですから、どんな人でも一味になります。
今日で言えば、自称福徳会員さんが行かれたという、華光会と親鸞会では、その運営の仕方は異なります。
もし、自称福徳会員さんが、華光会の代表者の信心が、真実信心と思われるとして、それを団体の運営と関係づけておられるのならそれは違います。
いわば、その個人の分かりやすく言えば「性格」です。あるいは「嗜好」と言ってもいいでしょう。
目標設定というのは、これは「教義」ではなく、「運営上の経営判断」の問題です。それが優れているかどうかはまた別の話で、「真実信心を獲た(と思われる)人の、発言、判断」は、すべて真実信心のなせる技なのでしょうか?
説法、布教、あるいは教義上の質問に対する答えならば、「さすが真実信心を獲た人だ」と思うようなこともあるでしょうが、教義上の間違いはただの一度も犯さないということはありません。
親鸞聖人でさえ「我あやまてり」と仰有っています。
目標を設定するということがいいのか、悪いのか、それは、それを受け取った人によって、判断は分かれるところでしょう。教義のことではありませんから、是非を論じても終わりはありません。
ただ、「そういう経営判断」だということです。
その経営判断が、いいか悪いか、どんな企業のトップでも、間違いは犯します。
また時代によっても、その判断は、いろいろと変わっていくものです。
教義はあくまで、お聖教の中にあるものだと前のエントリーで書きました。
その教義の通り弥陀に救われた体験のある人でも、布教する手段も方針もみな異なると言うことです。
親鸞会のすること、考えを、代表者の信仰となにかと結びつけるのは、真実信心を、超能力かなにかと勘違いをしておられるからではないでしょうか。
「有漏の穢身はかわらねど こころは浄土に遊ぶなり」
と親鸞聖人言われるとおりで、弥陀に救われたといっても「有漏の穢身」は何も変わりません。
ということは、「性格」も「嗜好」も何も変わらないのです。
「お金が好き」な人は、お金が好きなまま変わりません。
「人から褒められるのが好き」な人は、そのまま変わりません。
「盗みをはたらく」人は、そのまま変わりません。(法然上人時代の耳四郎がそうでした)
自称福徳会員さんのいわれる「高森教」という批判には、「教義」も「信仰」も「性格」も、いろいろと混ざっているので話しがわかりにくくなっている感じがします。
「教義」「信仰」と「性格」「嗜好」「判断」は別物です。
救われたら、性格が変わる、嗜好が変わる、判断が優れるようになるという教えが浄土真宗の教えではありません。
「経営判断がおかしい」=「信仰がおかしい」「教義がおかしい」とは言えないのです。
もし言えるのなら
「経営判断が正しい」=「真実の信仰」「教義が正しい」
ということになります。
ただ、教義の分からない人が、教義と結びつけて、教えまでおかしいと思うのは、とても残念なことです。