安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

真実は属人性のものではありません(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんへ

コメントいただきありがとうございました。
(全文はこちら http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080719/1216466149#c

残念ながら、根拠になりません。

なぜ根拠にならないかはご自身で(聖人がどのような人に対し、どのようなお気持ちで、どのような意味で書かれたお言葉か)お考えください。ただし、一言だけ申し上げます。このご文は護法のために聖人が命を賭けられて書かれたお言葉と拝察します。その尊いご文を高森教の教義の矛盾点をごまかすことに利用するために引用されることには義憤を感じます。

こちらは出した根拠は根拠にならないとご指摘頂きました。
また、この件については議論を終了と聞きましたので、そのように致します。

上記引用部分について、いいたいことは、分かりますが、前々回からのエントリーの「高森教」という表現について、一言書いておきます。

そもそも高森教という言い方は、「高森先生オリジナルの教義」という意味でいわれているのだと思いますが、それの真偽はさておき、そのように、真実が、一定の個人に帰属するという言い方は、浄土真宗ではありません。

浄土真宗において、善知識といわれる人は、法を指し示す人であり、その人をとおして知るべきものは、真実(弥陀の本願)であり、真実信心なのです。

親鸞聖人のお言葉を出して説明するのも親鸞学徒としては当然ですが、親鸞学徒とは、親鸞聖人という個人に帰属する真実を信奉する人のことではありません。
真実は属人性のものではありません。

「唯一無二の善知識」などという人をさして、「高森教」といわれるのなら、そのとおりでしょうが、「唯一無二の善知識」といった時点で、それは浄土真宗ではなくなってしまいます。真宗の何処に、善知識は同時代に一人でなければならないとあるでしょうか。
そんなことをいっている人があるかもしれませんが、少なくもと私は高森先生ご自身の著作やご説法で聞いた記憶はありません。

前述の通り、真実とは属人性のものではなく、また、一個人が所有出来るようなものは真実とはいいません。

「たとえ相手が三歳の子供であっても説かれることが真実なら聞かねばならない」とも聞いてきました。

元自称福徳会員さんが、私に向って「高森教」というように私を見ているとするならば、同様のことを、親鸞聖人ご自身に向って考えておられるように感じるのですがいかがでしょうか。「親鸞学徒」とは「親鸞教」の信者では無いのです。

それは、親鸞聖人ご自身が「親鸞、私なし」といわれていることからも明らかです。

私が今まで書いてきたことも、高森先生という一個人だけが知っている真実を聞いていっているのではありません。あくまで、弥陀の本願まことをいっているに過ぎません。

ご質問を頂いておりますのでお答えします。

1.親鸞聖人は19願・20願は方便の願であると教えられたことはご存知でしょうか?
2.親鸞聖人は方便の願を捨てなさいと教えられたことはご存知でしょうか?

1については、元自称福徳会員さんが「ダイレクト」にこだわるのであれば、
「19願、20願は、方便の願である」という言い方をされたところはありません。

2については
「当流は廃立肝要なり」(御遺言鈔)と親鸞聖人仰っている通りです。

最後におこたえ頂いた部分で、一つ不明なところがございましたので、こちらから質問させて頂きます。

「19願や20願、聖道諸経は方便」と信じて、それらを捨てて、18願の真実を求めさせていただかないといけないと思います。

「方便」と信じて、それらを捨てて、とは、「方便だから捨てる」ということでしょうか?
それはいつのときなのでしょうか?

よろしくお願い致します。