安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

更に親鸞珍しき法をも弘めずについて(なるほどさん、Kさんのコメントより)

なるほどさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
前回のエントリーのKさんのコメントとも関係があると思います。

以前のエントリーのコメントでこのように書きました。

>ぺんぺん草さん
現生正定聚は親鸞聖人独自の釈顕です。
それを前提に解説された部分は、親鸞聖人独自のものということです。(山も山)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090814/1250242562#c1250506499

それに対する、なるほどさんから頂いたお尋ねです。

すると「さらに親鸞珍しき法をもひろめず」という趣旨のことを聞いたことがありますが、それとの関係は、どう説明されるのでしょうか?(なるほどさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090814/1250242562#c1250515412

これについて回答します。

参考にして下さい。

おほよそ聖教には、真実・権仮ともにあひまじはり候ふなり。権をすてて実をとり、仮をさしおきて真をもちゐるこそ、聖人(親鸞)の御本意にて候へ。かまへてかまへて、聖教をみ、みだらせたまふまじく候ふ。
(歎異抄 後序)

(あほうどりさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090814/1250242562#c1250560106

歎異抄後序のお言葉ですが、ここにも、経典をはじめ、過去の高僧知識の書かれたご著書には、真実と方便とが説かれています。
それまでの解釈上のことは、文字の表面上に教えておられる部分があるが、それは方便であり、真実はこうであると教えていかれたのが親鸞聖人教えです。

親鸞聖人が教行信証に、経典、七高僧方の書かれた書物を多々引用されていますが、それも真実を明らかにするためのものです。
ここで真実というと、どうも曖昧なところがあると思われるかも知れませんが、真実信心であり、南無阿弥陀仏のことです。

南無阿弥陀仏といっても、意味が曖昧に思われるかも知れませんが、一切の聖教はこれ一つにおさまります

他力の信心を獲るというも、これしかしながら、南無阿弥陀仏の六字のこころなり。この故に一切の聖教というも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなり。(御文章5帖9通・安心の一義)

他力の信心を獲るというのは、南無阿弥陀仏の六字の心である。だから、全てのお聖教は、南無阿弥陀仏の六字を信じさせる為のものであると言われています。

そこでコメント頂いた親鸞聖人のお言葉を、御文章から引用します。

如来の教法を十方衆生に説き聞かしむる時は、ただ如来の御代官を申しつるばかりなり。
更に親鸞珍らしき法をも弘めず、如来の教法を、われも信じ人にも教え聞かしむるばかりなり。(御文章1帖目1通・或人いわく)

親鸞聖人が珍しい法を広めたことはないというのは、如来の代官であるという自覚から仰ったことです。自分自身が何か考えがあって広めているのではなく、如来の代理で、如来の伝えられたことを伝えているのだと言うことです。
では、仏様の教えられたことは何かというと、先の御文章5帖目9通のお言葉にあるように、「南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめ」ることであり、他力の信心を獲る身になりなさいと言うこととです。

文字上の解釈が異なることがあっても、お経だけで分からないところを、七高僧方が解釈され、それでも明らかにならなかった他力信心の世界を、親鸞聖人がより明らかにされたのです。他力信心を明らかにされたという点では、何も珍しき法ではありません。

Kさんからコメントを頂いたコメントに関しては、曇鸞大師のお言葉ですが、親鸞聖人以前は、「往生」といえば、「阿弥陀仏の浄土に往き生れる」という意味が一般的でした。
「往生」がそういう意味だと限定して読まれれば、死後のことだと読めると思います。しかし、「往生」に死後の往生と、現生正定聚と二つの意味があるという前提で読めば、いわれるようにどちらとも読めるかと思います。

親鸞聖人の「往生」の解釈も「阿弥陀仏の浄土に往き生まれる」部分がほとんどです。

然るに今特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入し、速に難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓、良に由有るかな。(教行信証化土巻)

この三願転入の御文も、阿弥陀仏に救われて、難思議往生を遂げるのは未来のことであり、死んだ後のことといわれています。

しかし、「往生」について、現在として独自の解釈されたのは、本願成就文の「即得往生住不退転」の部分です。

「即得往生」というは、即はすなわちという、ときをへず日をもへだてぬなり、また即はつくという、そのくらいにさだまりつくということばなり。得はうべきことをえたりという、真実信心をうれば、すなわち無碍光仏の御こころのうちに摂取して、すてたまわざるなり。摂はおさめたまう、取はむかえとるともうすなり。おさめとりたまうとき、すなわち、とき日おもへだてず、正定聚のくらいにつきさだまるを往生を得とはのたまえるなり。(一念多念文意)

このように言われていますが、大意は、真実信心を獲得し、阿弥陀仏に摂取されると、その時から正定聚の位に定まることを往生といわれています。
ここで、往生といわれているのは、生きている間に信心決定したときに正定聚の位に定まることです。

親鸞聖人が「往生」と書かれた場合は、「死んで阿弥陀仏の浄土に往き生まれる」場合がほとんどで、「阿弥陀仏に救われてただ今正定聚の数に入る」場合は、即得往生の往生です。
親鸞聖人に関しては、この二つの意味があるので、親鸞聖人の書かれた文章を読まれて、死んだ後でも、現在でもどちらでも意味が通るようにおもわれるのも、その通りだとおもいます。

書かれた方が、その言葉をどのように定義して書かれていたかによって解釈は変わりますので、Kさんの感覚の問題ではなく、語義をどう扱うかの問題だと思います。往生の語義を「現在と死後の二つある」という前提で読めば、Kさんが言われるように読めてしまいます。