安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

方便について7(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんのコメントより
全文はこちら http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080628/1214657835#c1214762007

元自称福徳会員さんへ、コメント有り難うございました。

私たちが信心決定するために、「阿弥陀仏はどのように教えられたか」、「善智識はどのように教えられたか」あるいは「私たちはその教えをどのように受け取るべきか」と言うことです。

そのように今後回答を心がけていきます。よろしくお願いいたします。

貴殿の主張は『蓮如上人は「雑行を捨てよ」と教えられたが、聞く立場のものは、「捨てられると思う心があれば捨てなさい」と理解しなさい』と言うことでしょうか?
それとも『蓮如上人が「雑行を捨てよ」と教えられようと「捨てられると思う心があれば捨てなさい」と教えられようと意味は一緒』と言うことでしょうか?

『「捨てなさい」と理解しなさい』ということではありません。捨てよといわれています。

この件について、「雑行をすてよ」と教えられる相手は、当然雑行自力の心を持っている人です。
自力の心とはどんなこころかというと、「なんとかすれば何とかなれる」という心であり、「雑行がすてられるとと思う心」です。
そんな心しかないのですから「雑行をすてよ」といわれれば、「なんとか捨てようと必死になります」。
もちろん何とか弥陀の救いにあいたいと真剣になっている人は、という条件付きです。
それというのも、弥陀の救いに真剣にならない人は、雑行自力についても真剣に捨てようとか、どうしたら廃るのかという心がおきないからです。
「理解しなさい」といわれて、「理解しました、では、捨ててみます。でも、雑行自力ってどんな心でしょうか」という人は、そこまでの信仰だということです。

よって、「雑行」=「捨てられると思う心」ですから、元自称福徳会員さんが書かれているもう一つの

『蓮如上人が「雑行を捨てよ」と教えられようと「捨てられると思う心があれば捨てなさい」と教えられようと意味は一緒』と言うことでしょうか?

ということになります。

「主語が阿弥陀仏」とおっしゃられますがあくまで主語は救われる本人です。阿弥陀仏のお力で主語である救われる本人が自力を捨てさせられると解釈するべきです。主体はあくまで救われる本人であるべきです。それは「本人が自力を捨てようと真剣にやってみる」ことが必要と考えるからです。ですので、「雑行を捨てよ」と教えられるべきであり、「雑行を捨てられると思う心があれば捨てなさい」と教えるべきでないと思います。

「私が」捨てて救われるということではなく、「阿弥陀仏が」雑行雑修自力の心を捨てさせてくださるから救われるということで、「阿弥陀仏が主語」といったのです。

雑行を持っているからすてよと言われるのですが、「私が」捨てられるから助かるのではないということから、「雑行をすてられると思う心(自力)があれば捨てなさい」と表現しました。

「これで宿善が厚くなる」とか「救われるのに近づく」とか「救われるための勝縁になる」とかと言う気持ちでやってはいけませんし、そのように勧めてもいけません。ましてや目標や表彰制度を設定を設定し、ミスリードをするのはもってのほかです。
悲願の法城ビデオは意図してミスリードする構成になっていると思わずにおれません。

上記に関しては、同意です。
座談会の内容と、前後のビデオで言っている内容が一致しません。


そこで、今回、回答申し上げたいとコメントを読んでいた中で、一つ気になる部分がありました。

18願を求めるようになるまでに阿弥陀仏が必要と思われて建てられたのが19願、20願です。さらに19願に導くために説かれたのが聖道諸経です。

ここまでは私も同意します。

この場合、19願、20願、聖道諸経も説き方は「説かれているとおりに実行すれば説かれているとおりに救われる」という説き方です。求めるほうも如実に実行しようと努力する必要があります。19願、20願の場合でしたら「19願に説かれている諸善や20願に説かれている念仏を称えれば化土往生できる」と説くべきですし(以下参照)、求めるほうもそのような気持ちで真剣に実行しなければなりません。また、現在、18願を求めている人はそのように実行してきたはずです。そして18願の救いに与ったとき、振り返って知らされるのが3願転入の道です。

聖道門諸経は、弥陀の救い(三願)に導くための方便という点では、同意しましたが、十九願や、二十願は、十八願の救いにあわせる為の方便ですから、十九願単独で説かれたり、二十願単独で説かれると言うことはありません。
最初に十八願(真実・目的地)を示して、その目的にむけてどうしたら到着できるでしょうか?と真剣になった人に、十九願、二十願(方便・手段)を説かれるのです。

聖道門諸経が方便(手段)とした場合の、その方便がどこへ導くためかと言えば、弥陀の救い(目的地)です。
弥陀の救いとは、十八願(真実)のことです。
十九願へ導くときくと、十九願が聞法している人にしてみれば、目の前にまず十九願があらわれて、それに向けて真剣に行じていると、次に二十願があらわれて、次に二十願を真剣に行じていると十八願に救われるというようなものではありません。

いつでも、阿弥陀仏は十八願の世界にすべての人を救うのが目的であり、善知識方も、弥陀の救いをまず指し示されます。よって、説かれる善知識も、弥陀の救いを明らかにして、それに向けてどうすれば弥陀に救われますか?と、真剣に弥陀の救いを求める人に、ではこれをやってみなさいと、十九願、二十願を説かれるのです。
最初から十九願を説いて、その通りに実行していたら、十八願の救いを求める気持ちが出てくるのではありません。

元自称福徳会員さんの指摘される、「ミスリード問題」もそのあたりが、三願転入の教えとあわないのではないかというところから来ているのだと思います。

確かに、財施や、法施などの善は、善ですから、行えば善果はかえってきます。
「宿善が厚くなる」といって勧めます。
しかし、それと救いを関係づけたり、その善をすることによって真剣に弥陀の救いを求めるようになる、言葉をかえると
「十九願の善を一生懸命したら、十八願を真剣に求める心になる」という理解や、そのように人に勧めるのは間違いです。

繰り返しになりますが、十九願で勧められる善は、十八願の救いを真剣に求める気持ちになった人(発菩提心)に対して、ではこういう善をしてみなさい(修諸功徳)と言われているのです。

十九願だけ見ていては、善は相対なので、どこまでやっても終わりがない、どこまで行っても救われたということがないから、臨終まですくわれないといわれるのです。

「救われるのに近づく」とか「救われるための勝縁になる」という言い方は、大変誤解を招く言い方に違いはありません。そう言って勧める人が、本気でそう思っているのなら、行って来るほど理解が違うということになります。

ラベンダーさん、がコメントされているような話しになってしまいます。

あんまり真剣でない人に、方便という言葉を使って真実に近づけるには絶対必要だから(善をしなさい、お金をだしなさい、法をひろめなさい)そしたら、すごい世界に出れますよ、この世の苦しみは全部なくなりますよ、障りもなくなりますよ、というのは、仏法ではなくて、御利益宗教や邪教とどこが違うんですか?と聞かれているように思います。

これでは、三願転入の弥陀の救いとはほど遠いものになってしまいます。

実際、「私たちには、何もわからないのですから、19願で説かれている善を<はい>と聞いてやらせて頂きましょう、御恩ですから」と意味不明の説明を聞きますので、さもありなんと思います

ここも大変聞き間違い易いところです。
これも、<はい>と聞くのは、阿弥陀仏の仰せであり、「雑行雑修自力の心をふりすてよ」の仰せに、従うのです。
それは、十八願に救われる、一念突破のときであって、十九願で説かれている善を<はい>と実行していれば、真剣に求める気持ちが出てきてやがてすくわれますよということではありません。

はい、と無条件に従うは、阿弥陀仏の仰せに従うのであり、一念突破のときであります。

聴聞の、「聴」と「聞」を混同し、信前と、信一念を聞き間違うところに、このようなことがでてきます。

まだ、元自称福徳会員さんの指摘のコメントは、あるのですが、すみませんが、こちらの時間の都合で、今日はここまでにいたします。

最後に、ひまわりさん、コメント有り難うございました。

ひまわり 2008/06/30 15:12
(略)
逆の話をされている気がして、聞けば聞くだけわからないので、講師の話は聞かない方がいいと思います。

聞く側の聞き間違えなのか、実際反対なのかは私はひまわりさんがどのような話しを聞かれたかはわかりません。
ラベンダーさんの書かれたようなことが、そういう結果になるのだと思います。